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日韓の二千年の歴史17

2019’05.26・Sun

日韓の二千年の歴史17/文禄の役

日本が本格的な戦国時代に入ると、日本と朝鮮半島の交流も完全に途絶えてしまった。
日本は国内が騒乱状態となって外交どころではなくなったし、朝鮮王朝は太平の世が続いて、感覚的にぬるま湯につかっているも同然だった。
あえて面倒な外交に乗り出す気概もなかったと言える。

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ソウル中心部にある李舜臣の像

朝鮮王朝が送った使節

朝鮮王朝の危機感の欠如は致命的だった。
豊臣秀吉が1585年に関白に就任した直後から大陸に攻め入る構想を持っていたのに、朝鮮王朝は隣国の事情にあまりに疎すぎた。
秀吉は1587年に九州を平定したが、そのときには中国だけでなくインドまで手中に収めると大言壮語するようになっていて、その意志を強く示すためにも朝鮮王朝の国王を挨拶に来させるように対馬の宗氏に命令していた。
「なにやら日本の雲行きが怪しい」
いくらぬるま湯が気持ちよくても、さすがに朝鮮王朝も日本の動向に疑心を持たざるをえなかった。
1590年、朝鮮王朝は正式な使節を日本に派遣した。
表向きの理由は秀吉の天下統一を祝賀するためであったが、実際には秀吉が攻めてくるかどうかを見極めることが目的だった。

秀吉に面会して戻ってきた使節団の中で、正使と副使が国王の前で正反対の報告をした。
正使が「かならずや攻めてくるでしょう」と所見を述べたのに対し、副使は「秀吉は取るに足らない人物です。攻めては来ません」と断言した。
正使と副使では立場が違う。
格上の正使の意見が通りそうなものだが、実際にはそうでなかった。
なんと、副使の意見が通ってしまったのだ。

文禄の役が始まる

副使の意見が通った背景には、激しい派閥争いがあった。
当時の朝鮮王朝では政権中枢で党争が盛んだったが、副使が所属していた派閥のほうが権力基盤が優勢だったのである。
そんな事情から「日本は攻めて来ない」という意見が採用され、以後の朝鮮王朝は国防の強化に乗り出さなかった。
結果的に、それがいかに国を存亡の危機に陥れたか。
国王や政権首脳はすぐに悔やんでも悔やみきれない立場に追い込まれていった。

秀吉が用意した軍勢は16万。
この大軍が9つの軍団に編成されて次々に朝鮮半島に送られた。
1592年(文禄1年)4月13日、小西行長が率いた第1軍が釜山に上陸して「文禄の役」が始まった。
小西行長はまず、釜山城に対して「仮途(かと)入明」(明に入りたいので途中の道を借りたい、という意思)の最後通帳を行なったのだが、朝鮮王朝側がこれに応じるわけがない。
相手が反応しないことを見届けてから、豊臣軍の第1軍は釜山城を攻めて落とした。

李舜臣の登場

小西行長が釜山に上陸してからほぼ20日後の5月3日、豊臣軍は朝鮮王朝の都である漢陽(ハニャン)に攻め入った。
その前に、朝鮮王朝の14代王・宣祖(ソンジョ)はすでに都から抜け出して北に逃げていた。
漢陽を落とした豊臣軍は、続いて朝鮮半島の八道を分割して占領することをめざした。
緒戦の大勝に気を良くした秀吉は、自ら朝鮮半島に渡る意欲を見せたのだが、徳川家康や前田利家といった大老たちの反対によってそれをしばらく延期した。
その秀吉に代わって石田三成が朝鮮半島に渡り、朝鮮奉行として実質的に各大名に命令を出した。
各大名は、兵糧米をしっかり確保するために土地を占領して農民を支配することを狙った。
加藤清正の場合は、朝鮮半島東北部の咸鏡道(ハムギョンド)の占領をもくろみ、その過程で宣祖の2人の王子を捕らえている。

それが象徴的な出来事だった。
朝鮮王朝軍は敗退を続け、朝鮮半島は豊臣軍の思うがままになっていた。
しかし、その窮地から朝鮮王朝の反撃が始まった。
各地で土地の有力者を中心にした義兵が組織され、局地的に豊臣軍に抵抗した。
この義兵の活動は燎原の火のごとく朝鮮半島に広がり、豊臣軍を徐々に苦しめていった。
さらに、天才的な戦術家・李舜臣(イ・スンシン)が指揮する水軍が、亀甲船という画期的な戦闘船を主力にして戦い、次々に豊臣水軍を破っていった。
これは朝鮮半島に駐屯していた武将たちにとって大変な痛手であった。
なぜならば、日本からの補給路を絶たれてしまったからだ。

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今年兵役が終わる主な芸能人

2019’05.23・Thu

今年(2019年)兵役が終わる主な芸能人/除隊日はいつ?

韓国の芸能ニュースの中で兵役関連のものはとても多い。
それだけ、芸能人の兵役は関心が高いのである。
最近は多くの芸能人が入隊ラッシュになっているが、今後は大物芸能人の除隊も多い。
その除隊日が大いに気になる。

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除隊が少し早くなった

続々と大物芸能人が兵役を終えて芸能界に復帰している。
たとえば、イ・ミンホは4月25日、チ・チャンウクは4月27日、2PMのテギョンは5月16日に兵役を終えている。
それでは、今後はどんな芸能人が除隊するだろうか。
なお、韓国では、兵役期間の短縮が2018年10月から実施されている。
最終的には、陸軍の兵役期間は21カ月から18カ月に短縮されるが、それが完全に実施されるのは、2020年6月15日以降に入隊した人からになる。
それ以前の人は入隊時期によって短縮期間が変わってくる。
実際には、2018年10月から2週間に1日ずつ兵役期間を短くしていく方法が採用されている。
いずれにしても、除隊が早くなっているのは朗報だ。
それでは、具体的に除隊日を見てみよう。

〔キム・スヒョン〕
キム・スヒョンは2017年10月23日に兵役に入った。
軍事境界線の近くの最前線の部隊で軍務に励んでいる。
当初の除隊予定日は2019年7月22日だったが、兵役期間の短縮によって除隊日は2019年7月1日に変更された。
21日間も除隊が早まったのだ。

それぞれの除隊日

〔ジョン・ヨンファ〕
ジョン・ヨンファは2018年3月5日に兵役をスタートさせた。
当初は2019年12月4日が除隊日だったが、31日の兵役期間短縮の適用を受けて除隊日は2019年11月3日になる。

〔BIGBANG〕
T.O.Pは社会服務要員としてソウル市内の公共施設で服務しているが、当初より27日間の短縮を受けて、7月8日に兵役が終了する。
また、BIGBANGのメンバーの中で現役兵として陸軍に入隊しているのは3人だ。
入隊日は、G-DRAGONが2018年2月27日、SOLが2018年3月12日、D-LITEが2018年3月13日だった。

それぞれの除隊予定日を見てみよう。
兵役期間の短縮を受けて、G-DRAGONは2019年10月26日、SOLは2019年11月10日、D-LITEは2019年11月10日になる。

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日韓の二千年の歴史16

2019’05.22・Wed

日韓の二千年の歴史16/室町時代

1333年に鎌倉幕府が倒れ、日本の政権は室町幕府に移っていく。
朝鮮半島では1392年に高麗王朝が滅び、代わって朝鮮王朝が誕生した。
この朝鮮王朝は建国当初から倭寇の狼藉に苦しめられていた。

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「応永の外寇」が起こったときの国王は4代王・世宗だった

三浦の制

「対馬こそが倭寇の根拠地である」
そう判断した朝鮮王朝は、1419年(応永26年)に大規模な船団を組織して対馬を襲った。
これが世に言う「応永の外寇」である。
このときの朝鮮王朝の国王は名君と称された4代王・世宗(セジョン)だが、まるまる1週間も対馬は攻められ、2千戸近い家屋が焼失した。
朝鮮王朝としては「倭寇を懲らしめるため」という大義名分を掲げたが、被害を受けたのはむしろ罪のない庶民たちであった。
いくら倭寇に苦しめられていたとはいえ、朝鮮王朝はあまりに外交を無視して強硬な手段に出すぎていた。
その穴埋めをするべく、1426年には新たに塩浦(ヨムポ/現在の蔚山〔ウルサン〕)を日本に向けて開港した。
それまでは富山浦(プサンポ/現在の釜山〔プサン〕)と薺浦(チェボ/現在の鎮海〔チネ〕)が貿易港に指定されていたが、そこに塩浦を加えて朝鮮王朝は日本との貿易に力を注いだ。
これが「三浦(サムポ)の制」である。
貿易港となった3つの港には倭館が設けられ、朝鮮王朝と室町幕府の交流の場となった。

両国の政権は対等の立場を守り通した。
ここで重要なのは、朝鮮王朝が日本の天皇家を交渉対象とせず、あくまでも足利将軍家だけを日本の統治者と見なしたことである。
その証として、国書を出す際には足利将軍家を「日本国王」と称した。

途絶えた使節交流

15世紀以降、朝鮮王朝が正式な使節を日本に送ろうとしたことが合計で7回あった。
しかし、計画だけで中止になることも多く、現実的に朝鮮王朝の使節が京都までを往来したのは3回だけだった。
最初は1428年のことで、6代将軍・足利義教の襲職を祝うために使節が日本に出掛けた。
2回目は1439年で、両国の修好を目的とする使節だった。
3回目が1443年で、足利義教の死去を悼むと同時に7代将軍・足利義勝の襲職を祝うために使節が日本に渡っている。
この時期には立て続けに朝鮮王朝の使節が日本を訪れていたが、以後は海難事故を恐れる風潮が強くなって、使節の派遣が途絶えてしまった。

それでも朝鮮王朝と室町幕府の関係はおおむね良好だったのだが、日本が戦乱の世になって室町幕府が政治的に機能しなくなってくると、両国の関係も変化せざるをえなかった。
そんな中で、1510年4月4日に、富山浦と薺浦の対馬人が蜂起するという事件が起こった。

密貿易が多かった

きっかけは誤認殺人だった。
朝鮮王朝の役人が、釣りに出ていた4人の対馬人を倭寇と勘違いして斬殺したのが発端である。
これに怒った対馬人が一斉に蜂起したのだが、背景には密貿易がからんでいた。
実は、日朝貿易の拠点となっていた3つの港では、もともと密貿易で利益をあげていた対馬人が多かった。
朝鮮王朝もそのことを大目に見ていたのだが、1506年に即位した11代王・中宗(チュンジョン)は密貿易の取り締まりを強化し始めた。
これが対馬側の感情を著しく害した。
このように朝鮮王朝と対馬の関係が悪化する中で誤認殺人が起きて、怒りの蜂起につながってしまった。
対馬は援軍を送って蜂起軍を支援したが、朝鮮王朝が武力で鎮圧して6月下旬に乱は終結した。
「対馬の貿易特権を剥奪する」

朝鮮王朝は対馬の責任を厳しく追及したが、貿易を断たれると生活の糧を失う対馬は、乱の首謀者の首級18を差し出して正式に謝罪した。
その誠意を認め、朝鮮王朝は貿易量を減らすという条件で対馬の謝罪を受け入れた。

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日韓の二千年の歴史15

2019’05.21・Tue

日韓の二千年の歴史15/元寇

日本は、7世紀や8世紀に中国大陸の唐や朝鮮半島の新羅に使節を派遣して政治制度や生活様式を学んだ。
しかし、国内で政治体制を確立してからは隣国との接触に積極的ではなくなった。
以後、日本は大陸にあまり目を向けなくなった。
その間に朝鮮半島の情勢はどのようになっていたのか。

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元寇の際に作られた防塁が今も博多湾に残っている

元の領土的野心

高麗(コリョ)王朝は918年に建国されたが、初代王の王建(ワン・ゴン)が希代の英雄として活躍し、936年に朝鮮半島を統一した。
その後は典型的な仏教国として高麗は朝鮮半島唯一の政権を築いたが、異民族の侵入にいつも苦しめられた。
その中でも最大の脅威が蒙古だった。
高麗は、最強の蒙古に都の開京(ケギョン/現在の開城〔ケソン〕)を攻められた。
1231年のことである。
多大な犠牲を払いながら抵抗し続けた高麗。
一旦は両国の間で和議が成立したが、蒙古の野心が消えたわけではなかった。
和議は破綻し、高麗はさらに蒙古から厳しく侵攻された。
結局、40年ほどの激戦の末に高麗は蒙古に屈伏。
以後は過酷な蒙古の支配が始まった。
1271年に蒙古は国号を「元」と改めた。
元の領土的野心は、次に日本に向かった。
そのとき、元は高麗の兵力と経済力を徹底的に利用した。
高麗は日本を攻めるための船を900隻も造らされたうえに、多くの兵士が先兵の役目を負わされた。

元軍2万人と高麗軍6000人が朝鮮半島の南岸を出発したのは、1274年(文永11年)の10月3日だった。
まずは対馬と壱岐が占領された。
勢いに載る元・高麗連合軍は、10月19日に博多湾に侵入し、翌日から上陸を開始した。
こうして文永の役が始まった。

弘安の役

元・高麗連合軍は日本の軍勢を圧倒した。
その際には、火薬砲弾や毒矢という最新兵器が威力を発揮した。
博多の町は焼かれ、日本は絶望的な状況になった。
しかし、思わぬ吉報が日本の陣にもたらされた。
連合軍が陸上で野営せずに船のほうに引き上げたのである。
連合軍にすれば、夜間の奇襲を極端に恐れた結果の行動だった。
しかし、彼らは日本の奇襲を警戒するより、海上の気象を心配すべきだったのだ。
激しい暴風雨が連合軍の船を襲ったのは、10月20日の夜だった。
台風には勝てない。
海上の連合軍は壊滅状態となった。
台風のおかげで侵攻を防いだとはいえ、日本が感じた恐怖は底なしだった。

鎌倉幕府は守りを固めるために、九州の御家人に命じて防塁を造らせた。
規模は、博多湾の沿岸20キロメートルに及んだ。
防塁の高さは約2・5m。
すべて突貫工事で造られた。
元がすぐに襲ってくるかもわからないので、可能なかぎり防塁構築を急いだ。
最初の侵攻から6年。
元の軍勢が再び博多湾に押し寄せてきた。
前回は元と高麗の連合軍だったが、今回はさらに、揚子江の南に勢力を持っていた南宋の軍も加わった。
兵力は10数万人。
この圧倒的多数の兵士たちが二手(ふたて)に分かれ、1281年(弘安4年)6月に九州北部を襲ってきた。
これが弘安の役である。

元寇の影響

日本は絶体絶命の危機に陥ったが、救いとなったのがあの“防塁”だった。
延々と海岸線に造られた防塁を見て、連合軍は上陸時に多大な犠牲者が出ると考え、防塁を迂回する戦術を取った。
これが兵力の分散を招いた。
しかも、寄せ集めの連合軍は連携で失敗し、一枚岩になれない弱さを露呈した。
連合軍が混乱しているのを見抜いた日本は、博多湾に浮かぶ船団を小舟で夜襲して小さな戦功を重ねた。
そうやってかろうじて防いでいるときに神風がやってきた。
7月末に台風が襲ってきて、連合軍の船団は甚大な被害を受けた。
一気に、14万人の兵力が4分の1に激減したともいう。
こうなっては侵攻を続けられない。
連合軍は目的を達せられないまま退却していった。

二度にわたる元寇は高麗を奈落の底に突き落とした。
莫大な戦費が特に痛かった。
さらに、朝鮮半島南岸では倭寇の活動が活発になった。
高麗はどれだけ倭寇の被害に苦しんだことか。
滅亡の大きな理由として倭寇を挙げる学説も多い。
一方、鎌倉幕府も二度の元寇を通して政権の力が弱まり、こちらも滅亡への坂道を転がり落ちるようになった。
歴史は、一つの出来事が次代を動かす連鎖の繰り返しだ。
高麗も鎌倉幕府も元寇の影響からは逃れられなかった。
(次回に続く)

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日韓の二千年の歴史14

2019’05.16・Thu

日韓の二千年の歴史14/高麗郡の誕生

西武池袋線は、池袋から西武秩父まで通っている鉄道だが、中間に位置する飯能駅の2つ先に「高麗(こま)」という駅がある。
駅名からしていかにも高句麗にゆかりがありそうな土地である。

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高麗王廟は若光を祀っていると伝わっている

東国に移る渡来人

西武池袋線の「高麗」駅の改札口を出ると、正面に2つの塔が見える。
真っ赤に塗られた塔の右側に「天下大将軍」、左側に「地下女将軍」と記されている。
それだけでなく、2つの塔の上には怒りの表情を浮かべる人の顔が付いている。
もともとは、朝鮮半島において村の入口に設置して魔よけの役割を果たしたものだという。
それにしても、なぜ朝鮮半島に古くから伝わる習俗が高麗駅の真ん前で再現されているのか。
それは、1300年前に高句麗人がこの地を開拓したからである。
その歴史にあやかっているのが、「天下大将軍」であり、「地下女将軍」なのだ。
この2つの塔をまじまじと見たあと、しばらくは武蔵丘陵を歩いてみよう。
すぐに川が見えてくるが、その名は高麗川だ。
他に、「高麗」という名がついた学校や公共施設などがある。
現在の行政区域は埼玉県日高市なのだが……。
高麗駅から40分ほど歩くと、聖天院(しょうでんいん)にたどりつく。
入り口には、例の「大将軍」と「女将軍」の塔が建っている。
それだけで、この寺も高句麗にゆかりがあることがわかる。

山門をくぐらず、そのまま右に進むと、すぐに「高麗王廟」に出た。
社の中に高さ2・3mの石塔がある。
これが墓に該当するのだが、祀られているのは誰なのか。
実は、あの若光(じゃっこう)である。
8世紀の初めに大磯に定住していたはずの彼の墓が、なぜ埼玉県の日高市にあるのか。
それを語る前に、7世紀後半に畿内から東国に移る渡来人がいかに多かったかを見てみよう。
『日高市史』(埼玉県日高市発行)は次のように記録している。
・684年、朝廷は百済人23人を武蔵に移した。
・687年、高句麗人56人を常陸に、新羅人14人を下野に、新羅人22人を武蔵に移した。
・689年、下野へ新羅人を移住させた。
・690年、新羅人12人が武蔵に、新羅人の若干が下野に移った。

聖天院と高麗神社

日本に来ても渡来人は故国ごとに分類されて「百済人」「高句麗人」「新羅人」と呼ばれていたが、彼らは次々に武蔵(現在の東京都と埼玉県)、常陸(茨城県)、下野(栃木県)に移っていった。
朝廷が東国開発を本格化させていた影響を受けたものだ。
そうした移住政策の一環として、若光に率いられた高句麗人たちが706年から相模に定住したわけだが、朝廷はさらに大規模な東国開発を計画し、716年に実施された。
その際、駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模、上総(千葉)、下総(千葉)、常陸、下野に住む高句麗人1799人を武蔵に移して「高麗郡」を新設した。
新たな郡が設置された背景には、東国に分散していた高句麗人たちを同じ場所に集中させることを嘆願する勢力の存在がある。
それは、高句麗系の特権階級たちだ。
彼らは、百済系や新羅系とは一線を画し、自分たちの勢力を関東で集約させることを願った。
それが高麗郡への集中移住に結びついた。
しかし、すでに居住地で生活の基盤を作っている高句麗人も多く、移住には不満も出た。
そうした不満を抑える指導者が必要となった。
その適任者が、すでに大磯で実績を作っていた若光だったのである。
彼は最初の高麗郡長官に任命されて、相模から武蔵に移ってきた。

高句麗が滅亡する2年前の666年に日本に来ているから、716年というと、すでに50年の歳月が流れている。
当時としては、どれほどの高齢だったのか。
それにもかかわらず、彼はりっぱに職責を果たし、新しい土地で尊敬を集めた。
その若光の菩提寺として751年に創建されたのが聖天院である。
高麗郡の本寺として知られ、江戸時代には「院主の格式は諸公に準ずる」と言われるほどの格式を誇った。
若光の墓と伝えられる「高麗王廟」が聖天院にあるのも、そこが彼の菩提寺だからだ。
その聖天院から500mほど北には高麗神社がある。
若光を祀る神社で、宮司は若光の子孫が代々務めている。
今に至るまで、若光の血が旧高麗郡の地に伝わっていることに驚く。
古代が連綿と現代につながっていることの証明ではないだろうか。
(次回に続く)

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