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イ・サンは毒殺されたのか

2019’10.17・Thu

イ・ソジン主演のドラマと違って史実のイ・サンは毒殺されたのか

22代王・正祖(チョンジョ)はドラマ『イ・サン』の主人公としてよく知られているが、韓国で歴史好きな人は「正祖は毒殺されたのではないか?」と疑っている。
その背景を見てみよう。

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まさに天敵

ドラマ『イ・サン』では正祖の毒殺説がまったく出てこなかった。
それは、イ・ビョンフン監督の意向が優先されたからだ。
物語の最後に正祖が毒殺される場面を持ってくると、ドラマ全体の印象が暗くなるので、あえてイ・ビョンフン監督は毒殺説に触れなかった。
しかし、現実的に正祖が毒殺された可能性はきわめて高い。
そのあたりの事情を見てみよう。
1800年6月、正祖は重病になった。
しかし、彼は主治医に自分の診察をさせなかった。
毒殺されることを極度に恐れていたからだ。
そんな状態だったので、正祖の病状も悪化するばかりだった。
そのとき、看病と称して出てきたのが貞純(チョンスン)王后だった。
この貞純王后は、正祖の祖父として著名な21代王・英祖(ヨンジョ)の二番目の正室である。

正祖の父の思悼世子(サドセジャ)は、当時の政治を牛耳っていた老論派(ノロンパ)の陰謀によって米びつの中で餓死したが、その際に裏で動いた黒幕の1人が貞純王后であった。
それだけに、正祖にとっても天敵に当たる女性だ。
とはいえ、形の上で貞純王后は祖母にあたるので、正祖もまったく手出しができなかったのである。

確かに動機があった

貞純王后は正祖が重病になると現れて、側近たちをみな別室に下がらせた。
つまり、病床で2人っきりになったのだ。
すると、すぐに正祖は息を引き取ってしまった。
果たして、正祖の身に何が起こったのか。
あまりに異常な事態に「正祖は貞純王后に毒殺された」という噂が起こった。
実際に動機もあった。
正祖が亡くなって最も得するのは貞純王后だったのだ。
結局、正祖のあとを息子の純祖(スンジョ)が継いだが、10歳と幼かったので、貞純王后が摂政を行なった。
そして、正祖が進めていた改革をすべてつぶし、その側近たちをことごとく追放してしまった。
さらには、政敵にキリスト教徒が多いという理由で、キリスト教の大弾圧を行なった。

王朝を意のままに動かした貞純王后。
彼女は、正祖の死によって、あらゆる利権を手にして、女帝のようにふるまった。
毒殺の張本人と疑われるのも当然なのである。

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日韓の二千年の歴史27

2019’10.15・Tue

日韓の二千年の歴史27/日韓併合

日本と清は1885年4月に天津条約を結んだ。
この条約では、「朝鮮半島から日本と清の両国軍隊が撤退すること」「朝鮮半島に再び兵を出すときは相互通告すること」が取り決められた。
その年の夏に、興宣大院君(フンソンデウォングン)がようやく清から帰国した。
それはすなわち、朝鮮王朝内部で政治の主導権争いが再び激化することを意味していた。

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日清戦争が始まった

適切な農業政策を実行できない政権の腐敗によって、朝鮮半島の農民の生活は困窮するばかりだった。
そんな農民の救いとなっていたのが東学である。
東学とは、西学(キリスト教)に対抗する東洋思想(儒教・仏教・道教)を意味しており、その根底には人間平等と社会改革の思想があった。
1894年2月、東学を信奉する多くの農民が全羅道(チョルラド/朝鮮半島西南部)で決起して、役所を襲った。
ここに「甲午(カポ)農民戦争」が始まったのである(「東学党の乱」とも呼ばれる)。
総大将は全琫準(チョン・ボンジュン)。
彼に率いられた農民軍は5月末には全羅道をほぼ制圧した。
危機に瀕した政府が清の軍隊に頼ろうとすると、すかさず日本も在留邦人の保護を名目に出兵の構えを見せた。
「清と日本に出兵の口実を与えてはならない」

そう考えた全琫準は政府との和睦を実現させるのだが、それに構わず日本は出兵し、清の軍勢と衝突した。
もはや日本と清の戦闘は避けられなくなった。
1894年8月1日、日本は清に対して正式に宣戦を布告した。
ここに日清戦争が始まったのである。
戦争を遂行する日本の目的は、朝鮮半島を保護国にすることであった。
実際、清との戦争中に朝鮮半島は日本の占領下に置かれた。
憤怒した農民軍は再び蜂起したが、日本軍に歯が立たず、全琫準は捕らえられて1895年3月に処刑されてしまった。

国号を「大韓帝国」に変更

日清戦争を有利に進めた日本は、1895年4月に清との間で日清講和条約(下関条約)を結び、莫大な利権を手中に収めた。
とりわけ大きかったのが、清の勢力を完全に朝鮮半島から追い出したことだ。
これで日本の朝鮮半島支配に拍車がかかった。
危機感を強めた朝鮮王朝は、ロシアに接近した。
とりわけ、明成(ミョンソン)皇后は日本に抵抗する姿勢を鮮明にした。
日本は強硬手段に出て、1895年10月に王宮に乱入した一派が明成皇后を暗殺した。
「国母」とも称される皇后が外国勢力に惨殺されたのだ。
明成皇后亡きあと、朝鮮王朝には親日政権が誕生した。
しかし、1896年2月に高宗(コジョン)はひそかに王宮を脱出してロシア公使館にたてこもり、親日派の高官たちを次々に処罰した。
以後、朝鮮王朝はロシア寄りの政治姿勢を鮮明にした。
冬でも海面が凍結しない港がほしかったロシア。
高宗を懐に引き入れたのは願ってもないことであった。

高宗がようやくロシア公使館から王宮に戻ったのは1年後だった。
彼は1897年10月に国号を「大韓帝国」と改めて初代皇帝の座に就いた。
それ以前、朝鮮王朝は中国に気兼ねして自ら皇帝と称することはせず、格が1つ下がる形の「王」を自称していた。
しかし、日清戦争において日本が勝利したことで、清は朝鮮半島で影響力を失い、朝鮮王朝は独立の証として「帝国」を名乗るようになった。
翌年、興宣大院君が世を去った。
高宗を取り込むようにして主導権を争っていた明成皇后と興宣大院君が相次いで亡くなり、朝鮮王朝の命運も尽きる寸前となった。

運命の1910年8月22日

20世紀に入ると、日本とロシアの対立が非常に激しくなった。
もはや両国の軍事衝突は避けられない情勢となり、1904年2月に日露戦争が始まった。
朝鮮王朝は中立を宣言したのだが、日本は朝鮮王朝の意向を無視し、軍事力を背景に朝鮮半島の全土を支配下に置いた。
日本は1904年8月に第1次日韓協約を強要。
朝鮮王朝は外交に関して日本と事前に協議することを求められた。
もちろん、朝鮮王朝が拒めるはずもない。
1905年9月には、日露講和条約が調印されてロシアは朝鮮半島から完全に追い出された。
すかさず日本は11月に第2次日韓協約を調印。
日本は統監府を設置し、朝鮮王朝は外交権を奪われた。
もはや亡国は避けられない情勢となった。
起死回生を期して、高宗は1907年6月にオランダのハーグで開催された万国平和会議に、日本の干渉に対する不当性を訴える密使を送った。
しかし、すでに朝鮮王朝が外交権を持たないことで失敗に終わり、高宗は日本の圧力によって7月19日に退位させられた。
代わって27代王に就いたのは、高宗の息子の純宗(スンジョン)だった。

7月24日には第3次日韓協約が締結され、日本は朝鮮王朝の内政を掌握し、軍隊を解散させた。
そうした政策を積極的に進めたのが韓国統監を務めた伊藤博文であったが、彼は1909年10月に安重根(アン・ジュングン)によって暗殺された。
結局、1910年8月22日に「日韓併合ニ関スル条約」が調印された。
その条文には「韓国皇帝がすべての統治権を完全かつ永久に日本国皇帝に譲渡する」と書かれている。
この条約は8月29日に公布されたが、それによって518年続いた朝鮮王朝が滅んだ。
統監府に代わって朝鮮総督府が置かれ、日本の植民地統治が始まった。
(次回に続く)

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日韓の二千年の歴史26

2019’10.10・Thu

日韓の二千年の歴史26/政変に揺れる朝鮮王朝

1863年、朝鮮王朝で26代王の高宗(コジョン)が即位した。
彼はまだ11歳だったので、父の興宣大院君(フンソンデウォングン)が執権となって、実際の政治を動かすようになった。

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開国を迫る日本

1865年、興宣大院君は景福宮(キョンボックン)の再建に乗り出した。
景福宮は1395年から1592年まで朝鮮王朝の正宮だったが、豊臣軍との戦乱の最中に焼失し、以後は再建されなかった。
しかし、興宣大院君は273年ぶりに景福宮を無理に正宮にしようと考え、大工事を行なった。
莫大な費用がかかったため、庶民には大増税となって評判が悪かった。
さらに、興宣大院君は鎖国攘夷政策を強化した。
反対したのが、高宗の妻だった明成(ミョンソン)王后だった。
彼女は1973年に政変を起こし、興宣大院君を失脚させた。
そんな明成王后の前に立ちはだかったのが日本だった。
明治維新後に富国強兵路線を歩んだ日本は、ついに朝鮮半島での権益を狙い始めた。
先兵のように動いたのが日本の「雲揚号」だ。
この軍艦が1875年9月に江華島(カンファド)の沖で挑発的な行動を取ったことで軍事衝突に発展した。
これが江華島事件である。

日本の武力は、朝鮮王朝にとって脅威だった。
ゆえに、朝鮮王朝は強く開国を迫る日本の圧力に抗うことができなかった。
その結果、1876年2月に日本と朝鮮王朝の間で日朝修好条規(江華条約)が締結された。
第1条には「朝鮮国は自主ノ邦ニシテ日本国と平等ノ権ヲ保有セリ」と規定されている。
条文には確かに“平等”という文字があるが、現実的にこの条約は“不平等”そのものだった。

開国した朝鮮王朝

日本が“朝鮮国は自主ノ邦”と規定したかったのは、清が宗主国でないことを強調したかったからだ。
そのほうが、日本が朝鮮半島に干渉するうえで都合が良かったのである。
さらに、この条約には「主要な港の開港」「自由貿易の推進」「日本領事による治外法権」などが織り込まれていた。
日本の武力に屈した朝鮮王朝は、自国に不平等と知りながら条約を結ばざるをえなかった。
開国に踏み切った朝鮮王朝は以後、アメリカ、イギリス、ドイツ、ロシア、フランスとも外交関係を築いた。
ただし、いずれも武力で威嚇された不平等な関係だった。
このように、日本や欧米列強の圧力に屈した朝鮮王朝。
近代化の必要性を痛感し、まずは軍隊の改革に着手した。
その結果、旧来の軍隊と、日本や西洋の軍制を取り入れた軍隊に分裂してしまった。

不満が募ったのが旧来の軍人たちだった。
給料は遅配となり、食事面での待遇も劣った。
怒った旧来の軍人たちが反乱を起こし、王宮や日本公使館を襲撃した。
これが1882年の「壬午(イモ)軍乱」である。
事態は、明成王后だけでは収拾できなくなった。
頼られたのが、失脚していたはずの興宣大院君である。
彼が政界に復帰することで反乱は徐々に収束していった。

開化派の三日天下

朝鮮半島に平穏な日々は訪れなかった。
「壬午軍乱」に乗じて日本と清が自国の権益を確保しようとして出兵してきたからだ。
両国がにらみ合う形になって、対立が深まった。
その最中に、興宣大院君が清に拉致されるという奇怪な事件まで起きている。
そのまま興宣大院君は天津で拘束された。
この頃の朝鮮王朝では、「明治維新に成功した日本に学ばなければならない」という考えを持った開化派が台頭してきた。
中心人物は金玉均(キム・オクキュン)で、彼は日本に留学して福沢諭吉の教えを受けた。
1884年12月、開化派は日本の後押しを受けてクーデターを起こし、一時的に王宮を占拠した。
この事件は「甲申(カプシン)事変」と呼ばれる。

王宮を占拠したことでクーデターは成功したように見えたが、黙っていなかったのが清だった。
「日本の支援を受けた政変を成功させてはならない」
清が武力で開化派を排除し、王宮占拠も「三日天下」で終わってしまった。
金玉均は日本に亡命したのち、1894年に上海で暗殺された。
(次回に続く)

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『不滅の恋人』が描く時代の史実

2019’09.25・Wed

『不滅の恋人』が描く時代の史実はどうだった?

NHKの総合テレビで日曜の夜に放送されている『不滅の恋人』が描く時代は、歴史背景からすると1450年代前半だ。
ドラマに登場するイ・ガンは歴史的に首陽大君(スヤンデグン)のことで、イ・フィは安平大君(アンピョンデグン)に該当する。
この2人は激しく対立したのだが……。

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競い合う兄弟

4代王・世宗(セジョン)の長男だった文宗(ムンジョン)は世子(セジャ/国王の正式な後継者)となっていた。
世宗は、二男の首陽大君と三男の安平大君に文宗の補佐役を期待していた。
そこで、世宗はいつも首陽大君と安平大君に同じ仕事をさせた。
天文観測やお経の翻訳、世宗の陵の場所を決めることなど、国家の重要事業を二人が一緒に管理するようにした。
世宗の晩年には王命を伝えることも二人がやっていた。
王家の中でも重要な位置にいる大君(正室が産んだ王の息子)たちの一人に一方的に権力が偏ると、後に王権の脅威になると考えた配慮だった。
長く一緒に政治に参加していた二人だったが、兄弟愛よりも競争心が強かった。
武人的な資質を持っていた首陽大君に対して、安平大君は詩、書、画に長けた芸術家だった。
特に書は中国までその名がとどろき、彼の書がほしいと願う人が多いほどであった。
それだけに、安平大君の自負心も兄である首陽大君に負けなかった。
二人の大君の力が大きくなるにつれて、彼らのまわりには人が集まり始め、彼らがライバル的な関係になると、宮廷には首陽大君派と安平大君派ができて、激しく対立するようになった。

1450年、世宗が亡くなり、文宗が即位した。
しかし、病弱だったために、在位わずか2年で世を去った。
後を継いで国王になったのは、文宗の幼い長男の端宗(タンジョン)である。
わずか11歳だった。
端宗が成人するまで国を治めることになった大臣たちにとって、巨大な力を持っている首陽大君の存在は脅威だった。
そこで、大臣たちは安平大君を引き入れることにした。
以前から大臣たちといい関係を持っていたのも一つの原因だが、それよりも彼は首陽大君に比べて相対的に安心できるというのが大きな理由だった。

政権を掌握したのは?

安平大君は兄の首陽大君を越えて一気に勢いを得た。
このように宮廷の力が安平大君に集まってはいたものの、それでも首陽大君と親しくしている者がもっと多かった。
力を集めようとした首陽大君の画策が功を奏していたのだ。
1453年、首陽大君はクーデターを成功させて、政権を一気に掌握した。
端宗を支えていた大臣の多くが殺された。
こうなると、安平大君も安泰とはいかなかった。
反逆の首謀者にされてしまった安平大君は、息子と一緒に島流しになり、さらには死罪となってしまった。
安平大君の素晴らしい才能を国や民衆のために生かせば、どんなに良かったことか。
彼自身もさぞかし無念であったことだろう。

一方の首陽大君は1455年に端宗を脅して退位させて、自ら7代王の世祖(セジョ)となった。
兄弟は完全に明暗を分けたのだ。

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日韓の二千年の歴史25

2019’09.24・Tue

日韓の二千年の歴史25/善隣関係の終焉

朝鮮通信使の招聘に消極的だった松平定信が政治の表舞台から去っても、招聘問題は進展しなかった。
朝鮮王朝は徳川幕府に不信感を持ち、あえて使節を派遣しようと思わなかった。
こうして空白期間は延々と続き、気がついてみれば朝鮮通信使の来日が半世紀近くも途絶えてしまった。

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対馬での易地聘礼

ようやく朝鮮王朝も妥協が必要だと察した。
「易地聘礼もやむなし」という空気になり、幕府の申し出を受けて1811年に朝鮮通信使を派遣した。
正式な使節の来日は1764年以来47年ぶりのことだった。
とはいえ、今回の旅程は対馬まで。
その地で、豊前小倉藩主の小笠原忠固が徳川将軍の代理として朝鮮王朝からの国書を受け取った。
このとき、幕府が対馬藩に経費として与えたのは9万両だった。
その金額で対馬藩は使節が宿泊する宿舎の新設などを行なったが、江戸まで呼ぶときのことを考えれば、ケタ違いの節約になった。
易地聘礼は、幕府にとって窮余の策だった。
もとはといえば、朝鮮王朝は日本からの使節をずっと釜山に留め置いていた。
つまり、最初から最後まで易地聘礼に徹していたのである。
それにしても、あれほどの蜜月関係を築いていた徳川幕府と朝鮮王朝であったが、長い年月が過ぎて双方の国内事情が完全に変化していた。
深刻な財政難と欧米列強の外圧で徳川幕府の衰退が著しくなり、易地聘礼ですらもはや朝鮮通信使を招聘するのが困難になった。

朝鮮王朝が激怒

朝鮮王朝も、凶作が続いていたにもかかわらず国王の外戚が政治を牛耳り、国内が混乱するばかりだった。
これでは日本に目を向ける余裕すらない。
こうして、長く続いた善隣関係は完全に途絶えてしまった。
そんな状況の中で、先に倒れたのが徳川幕府だった。
1867年10月、15代将軍・徳川慶喜は大政を朝廷に奉還した。
264年も続いた徳川幕府が終焉したのである。
翌年早々に戊辰戦争が起こり、日本国内が内乱状態になったが、9月には会津若松城が落城し、旧幕府軍はほぼ一掃された。
徳川幕府に代わって誕生した明治維新政府は、1868年10月に「大政が変わったことを朝鮮王朝に伝えよ」と対馬藩に命じた。

その12月、対馬藩の使節が朝鮮王朝に明治天皇の国書を渡した。
その文面を読んだ瞬間に朝鮮王朝側が激怒した。
絶対に許せない文字が文面にあったからだ。
それは、皇帝を意味する「皇」と、皇帝の命令を意味する「勅」である。

国交断絶

朝鮮王朝が皇帝と認めているのは中国大陸の覇者のみである。
それゆえに、朝鮮王朝は一歩下がって「王」を称している。
それなのに、日本が「皇」を名乗ってくれば、朝鮮国王が格下になってしまう。
序列を重んじる儒教思想を国教にしている朝鮮王朝としては、絶対に容認できないことだった。
朝鮮王朝は明治天皇の国書を受け取らずに突き返した。
この瞬間に、朝鮮王朝と明治維新政府は断交状態となってしまった。
「善隣関係を築いた徳川幕府を倒した新しい政府とは付き合いたくない」
朝鮮王朝は相手を門前払いにするのではなく、むしろ相手を懐に引き寄せるべきだった。

そういう外交戦略を持たなかったことが、後々の朝鮮王朝を苦しめることになる。
すでに時代は変わっていた。
その変化に対応できなかったことが朝鮮王朝の致命傷になっていく。
(次回に続く)

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うさまま

Author:うさまま



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