簡潔に読む!韓国の歴史 1・2
2016’09.02・Fri
第1回・第2回/百済の歴史
古代の朝鮮半島において、激しく覇権を争った高句麗(コグリョ)、新羅(シルラ)、百済(ペクチェ)。
この3つの国は歴史上で名高い三国時代を形成したが、韓国の時代劇でよく取り上げられているのは高句麗と新羅の2つである。

忘れられた国
韓国時代劇で高句麗と新羅がよく取り上げられる理由は何か。
高句麗は朝鮮半島の歴史の中で最大の領地を獲得した伝説の強国だったし、新羅は最初の統一国家としてその後の朝鮮半島の政治と暮らしに決定的な影響を及ぼした大国だからだ。
それだけ、時代劇の題材になりやすい国なのである。
一方の百済。
高句麗と新羅と比べると、いかにも地味だったと言わざるをえない。
しかも、660年に新羅・唐の連合軍に滅ぼされたとき、都の扶余(プヨ)は完全に焼き尽くされ、何の痕跡も残せなかった。
以後も、百済の伝統は完全に朝鮮半島の歴史から姿を消してしまった。
いわば、「忘れられた国」だったのである。
しかし、最近の韓国で古代の発掘調査が進むにつれ、百済という国家がいかに文化的に優れていたかがわかってきた。
今後、百済が歴史的に再評価されることは間違いない。
また、百済は日本とも非常に関係が深い国だった。
百済は漢字や仏教を日本に伝えたばかりではなく、百済の多くの知識人や技術者が日本に渡って活躍した。
それだけに、百済は新羅や高句麗よりずっと日本になじみ深い国だったのである。
高句麗を出て行った兄弟
韓国の歴史書『三国史記』によると、百済は高句麗を建国した朱蒙(チュモン)の息子が興した国ということになっている。
そのあたりの逸話は次の通りだ。
高句麗の王となった朱蒙には2人の息子がいた。
沸流(プル)と温祚(オンジョ)である。
当然ながら、朱蒙の後継者は長男の沸流になるはずであったが、さらに朱蒙には出身地に残してきた年長の息子がいることがわかった。
結局、その息子が朱蒙を訪ねてきて、実子であることがわかった段階で後継者となり、朱蒙の死後は2代王の瑠璃王(ルリワン)になった。
こうなると沸流と温祚の立場は危うくなる。
2人は配下の者を連れて南下し、新たに自分たちの国を築こうとした。
朝鮮半島の中央に位置する漢江(ハンガン)のあたりにやってきた2人。
沸流は海岸のほうが暮らしやすいと考えて、今の仁川(インチョン)のあたりを領土にした。
温祚は肥沃な土地が多いということで、今のソウルのあたりで国作りを始めた。
最初の首都は現在のソウル近郊
兄弟の中で、沸流は建国に失敗して自害せざるをえなくなった。
あまりにも悲惨な最期であった。
その一方で、温祚は周辺の部族集団を傘下におさめながら勢力を拡大し、紀元前18年についに十済(シプチェ)という国を建国した。
これが百済の始まりである。
温祚は初代の王となった。
都は、現在のソウル近郊にあたる慰礼城(ウィレソン)に築いた。
以上の経緯を『三国史記』は書いているが、歴史的にどの程度の信憑性があるかは現在も多くの議論を呼んでいるところである。
とはいえ、今の韓国でも、「百済は朱蒙の息子が作った国」という認識を持っている人が多いのも事実だ。
朝鮮半島の西南部は平野が多く、今でも韓国有数の穀倉地帯になっている。
こうした肥沃な大地を抱えているという地形的な利点を生かしながら、百済は徐々に勢力を拡大していった。
3世紀の中頃には中央集権的な国家の基盤をしっかり整備し、4世紀後半には朝鮮半島の南岸にまで領土を広げることに成功した。
こうして百済は、高句麗、新羅と覇を競う三国時代の一角を担うようになった。

豪華絢爛たる王朝文化
当時の百済にとって悩みの種は、南下を狙う高句麗の存在だった。
両国は漢江の流域で激しい戦闘を続け、お互いの王までも戦死するという悲劇を繰り返していた。
そうした戦いの様子はペ・ヨンジュン主演の『太王四神記』でもひんぱんに描かれていた。
漢江流域に都があると戦乱に巻き込まれるのは明白であり、百済としても、より安全な土地に遷都する必要性を痛切に考えるようになった。
そこで、百済は475年、都を熊津(ウンジン/現在の公州〔コンジュ〕)に移した。
501年には第25代目の武寧王(ムニョンワン)が即位し、その治世は523年まで続いた。
この頃が百済の黄金期で、当時は中国大陸の影響を強く受け、豪華絢爛たる文物に彩られた王朝文化を花開かせた。
『薯童謠(ソドンヨ)』の主人公
百済は、日本との交流も活発に行なっており、第26代目の聖王(ソンワン/日本では聖明王と呼ばれている)は、538年に日本の朝廷に仏像や仏教経典を贈っている(それは552年だったという説もある)。
これが日本に仏教が伝わった始まりとされている。
また、聖王は538年に都を現在の扶余(プヨ)に移すという大事業を行なっている。
ただし、554年に新羅との戦いの中で非業の死をとげてしまった。
百済では、戦死した王が何人もいるのだが、それだけ陣頭指揮をする王が多かったのである。
600年には第30代目の武王(ムワン)が即位した。
この王は時代劇の『薯童謠(ソドンヨ)』の主人公になっており、今の韓国で特に有名な百済王である。
歴史書の『三国遺事』には、新羅の善徳(ソンドク)女王の妹である善花(ソンファ)と武王が結婚したというロマンスが書かれている。
実際、その話をベースにして『薯童謠』は企画されたのである。
ドラマのタイトルになっている「薯童謠」とは童謡のことだが、武王は歌が大好きだったようで、ひんぱんに宴会を開いては、自ら鼓を打ち、琴を弾き、上機嫌で歌ったという。
また、実際の武王が偉大な王であったことは間違いなく、『三国史記』にも武王は「風貌や行動が立派で、豪傑でもあった」と最大級に称賛されている。
こうした武王の威光があるうちは黄金時代が続いたが、盛者必衰は世の常である。
660年に滅亡
第31代目の義慈王(ウィジャワン)の時代に、王宮があまりに贅沢三昧となって国防意識が薄れ、富国強兵に成功した新羅と中国大陸の唐との連合軍に一気に攻め込まれてしまった。
こうなると、百済もなすすべがなかった。
660年、百済は滅び、再興もかなわなかった。
ここに、700年近くも続いた百済の歴史に終止符が打たれたのである。
しかし、百済から多くの人々が日本に渡った。
逆にいえば、日本が百済の難民の受け皿になったのである。
ところで、日本では百済をなぜ「くだら」と呼ぶのであろうか。
有力なのが、「クンナラ」から転じたという説だ。
「クンナラ」とは今の韓国語で「大きい国」という意味である。
百済から来日した人々が「どこから来たのか?」と問われて、自分を大きく見せるために「クンナラから来た」と言ったのが、百済を「くだら」と呼ぶきっかけになったという。
確かに、「クンナラ」を早口で言うと「くだら」になる。
今となってはどこまで信憑性があるか確かめることができないが、「かもしれない」と思わせるようなエピソードである。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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