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簡潔に読む!韓国の歴史 3・4

2016’09.13・Tue

第3回・第4回/新羅の歴史

朝鮮半島の南東部に位置する慶州(キョンジュ)は、まるで町全体が重厚な歴史博物館であるかのようだ。
新羅(シルラ)というかつての大国は、この慶州の町と切っても切り離せない。
なぜなら、新羅は慶州を地盤として後に朝鮮王朝最初の統一国家に発展していったからだ。
改めて、新羅という国の成り立ちを見てみよう。

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由緒正しき王制

紀元前から紀元後にかけての朝鮮半島は、各地で部族国家が狭い領土を確保しながら競いあっていた。
そのころは稲作や鉄器の製造が各地に広まった時期であり、いち早く食料を確保して武器を備えた部族が力を伸ばしていった。
その1つが、慶州とその周辺を領土とする部族国家の斯盧(サロ)だった。

この国は、やがて水利事業で大きな成果を見せて、国土を今の慶尚(キョンサン)北道まで広げ、徐々に中央集権国家としての体制を整えていった。

当時は、朝鮮半島北部に高句麗(コグリョ)、西南部に百済(ペクチェ)が誕生しており、新羅は三国の中では中央集権国家の制度作りが最も遅れていた。
とはいえ、神話が混在した記録によると、新羅もそれなりに由緒正しき王制を持っていた。

中央集権的な国家に変貌

もともと、新羅という国は、紀元前57年に朴赫居世(パク・ヒョッコセ)が王位に就いたときから始まるとされている。

当初は朴氏が王位を守り、その後は昔(ソク)氏が王位継承の仲間入りをして、さらに金(キム)氏も加わった。

つまり、初期の新羅は朴、昔、金という三氏によって国が運営されたのである。

最後は、金氏の力が強大となり、王位は金氏によって独占されるようになった。

そして、356年には奈勿王(ネムルワン)が即位し、それまでの土着的な要素が強い国家が中央集権的な国家に変貌を遂げて新羅となった。

一方、朝鮮半島最南部で新羅と百済に挟まれた地域を領土としていたのが伽耶(カヤ)であった。

しかし、562年に新羅はこの伽耶を吸収してさらに領土を拡張した。

当時、朝鮮半島中部の大河であった漢江(ハンガン)の流域は、その支配をめぐって高句麗と百済が争っていたが、ここに新羅も進出し、三国による覇権争いが非常に激しくなった。

不倶戴天の敵

ドラマ『太王四神記』でも描かれた広開土大王(クァンゲトデワン)の時代から巨大な国家を築いていた高句麗。
その南下政策を防ぐという目的は、百済と新羅が共有できるものだった。

そこで、百済と新羅は同盟を結び、551年には百済の聖王(ソンワン)と新羅の真興王(チンフンワン)はともに協力して高句麗を駆逐し、漢江地域を占有することに成功した。

しかし、共通の敵である高句麗がいなくなった時点で、百済と新羅の同盟関係は崩れた。
何よりも、新羅は領土的野心をもって漢江地域の独占をもくろみ、当然ながら百済が反発した。

ここに、両国の紛争が勃発した。

敵対するようになった百済の聖王と新羅の真興王。
結果は新羅に軍配があがった。
そして、捕虜となった聖王は斬首されるという惨めな最期となった。

その憎しみから、百済は新羅を不倶戴天の敵とみなすようになり、以後は両国の間で激しい戦いが続いた。

三国時代の中でも、新羅の軍勢は強かった。
その背景には、兵士の精神面の強化に成果をあげていたという事実がある。
その最たるものが花郎(ファラン)精神なのだ。
一体、この花郎精神とは何であろうか。

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勇敢さと忠誠心

そもそも、花郎というのは、貴族的な家庭に育った青年たちの集まりのことだ。
彼らは幼い頃から徹底的に思想教育を受けて育つが、その際の精神的支柱となったのが花郎精神だった。

その基本的な戒めは、「王に忠誠を尽くすこと」「親孝行をすること」「信頼をもって友人と交わること」「戦争では退却しないこと」などである。

この花郎精神が新羅の青年たちに与えた影響はとても大きく、軍事的に言えば、強固な兵力強化の礎となった。

なにしろ、勇敢さと忠誠心を徹底的にたたき込まれて育つので、新羅の兵士たちは戦場でも強かった。

この花郎精神は現在の韓国にも受け継がれており、特に韓国の陸軍士官学校は今でも花郎の集まりと形容されるほどだ。

676年に朝鮮半島を統一

7世紀前半、軍事的に高句麗や百済より優勢となった新羅。
そうなると新羅は、高句麗と百済の両方から激しく攻撃を受けるようになった。

やはり、一国で2つの国と戦いを繰り広げるのは辛い。
そこで新羅は、中国大陸の巨大王朝との連携を図ろうとした。

これは中国大陸を支配していた唐にとっても渡りに舟だった。
当時、唐は何度も高句麗を攻めていたが、その度に失敗し苦汁をなめていた。
そこで、唐は新羅との連合を受け入れた。

さらに、新羅では金春秋(キム・チュンチュ)の活躍がすばらしかった。
彼は654年に即位して武烈王(ムヨルワン)となり、先頭に立って新羅を強国に導いた。
唐との連合も功を奏し、新羅は660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗も滅亡させて三国時代を終わらせた。

新羅・唐の連合軍は朝鮮半島の覇者となったが、唐は百済や高句麗の領土を独自に占領しようと企んだ。

当然ながら、新羅がこれを許すわけがない。

両国は激しく武力衝突したが、祖国の統一に執念を見せた新羅は唐の大軍を撃破。
676年に真の意味で朝鮮半島の統一に成功した。

部族国家の林立から三国時代という大きな潮流を経て、ここに新羅は朝鮮半島で初の統一国家を築いたのである。

935年に新羅の歴史が終わる

統一王朝の都となった慶州はシルクロードの終着地として、東西の文物が集う大都市に発展した。

また、新羅は中国とも交易を盛んに行なったが、そうした中から張保皐(チャン・ボコ)のような超大物が誕生している。

しかし、新羅の一人勝ちの時代は長く続かなかった。
慶州の立地条件の悪さが統一王朝の屋台骨を揺るがすようになったのだ。

慶州は朝鮮半島の南東部の端にあり、全土を統治するうえでは不都合だった。
それゆえ、朝鮮半島全体に目が行き届かなくなり、各地に有力な豪族が台頭する結果となった。

そうした豪族たちは、自分たちの正統性を高めるために後百済(フペクチェ)や後高句麗(フコグリョ)といった国を建て、新羅と激しく争うようになった。

その中から、高句麗の継承者を自称する王建(ワン・ゴン)が918年に高麗(コリョ)を建国し、勢力を伸ばしてついに935年に新羅を帰順させた。
ここに新羅時代は終わりを告げたのである。

その後、高麗は各地の勢力を駆逐して936年に新たな統一国家を築いた。

統一王朝は新羅から高麗に移ったのだが、新羅時代の制度や風習の多くが高麗にも受け継がれ、それは今の韓国社会にも継承されている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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