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康熙奉の朝鮮王朝秘話【英祖と思悼世子】

2016’10.17・Mon

英祖と思悼世子の確執

老論派の陰謀

朝鮮王朝で最大の悲劇とも言える「世子の米びつ餓死事件」(1762年)。
この事件の当事者は英祖(ヨンジョ)と思悼世子(サドセジャ)だが、どうしてこんな悲劇が起こったのか。

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政治改革を進める王

1724年8月30日に朝鮮王朝21代王として英祖が即位した。
19代王の粛宗(スクチョン)に愛された淑嬪(スクピン)・崔(チェ)氏の息子である彼は30歳になっていた。

英祖は各派閥から公平に人材を登用する政策を進めた。
これは蕩平策(タンピョンチェク)と呼ばれるもので、英祖の治世を代表する政策の一つになった。

確かに、蕩平策は多くの人材を生かすうえで効果を発揮した。
派閥の枠にとらわれて働く場を得られなかった有能な官僚たちに重職を与えられ、彼らがその職務を全うすることで政治が活性化していった。

自信を深めた英祖は、党争を克服して政治改革を進める意欲を見せた。
そういう点では、実に頼もしい王であった。

最大派閥に恨まれた世子

英祖の正妻は貞聖(チョンソン)王后だったが、2人の間に子供はいなかった。
英祖の最初の息子は、側室の靖嬪(チョンビン)・李(イ)氏が産んだ孝章(ヒョジャン/1719年生まれ)だった。

しかし、この長男はわずか9歳で病死してしまった。

その後は側室との間にも息子が生まれず、王の後継者がまったくいないという状況が長く続いた。

英祖もどれほど気にかけていたことだろうか。
それだけに、1735年に側室の映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏が二男の荘献(チャンホン)を産んだときは、英祖もことのほか喜んだ。
すでに41歳になっていたからなおさらだった(荘献は後の思悼世子である。以後は思悼世子と表記する)。

期待にたがわず、思悼世子は幼い頃から聡明だった。
1歳で世子(セジャ/王の正式な後継者)に指名された彼は学問に励み、詩作や書道で才能を発揮した。
9歳のときに、領議政(ヨンイジョン/総理大臣)まで務めた洪鳳漢(ホン・ボンハン)の娘と結婚した。
それが後の恵慶宮(ヘギョングン)である。

世子として甘やかされて育った思悼世子は、自分の才能に溺れすぎるところがあったのかもしれない。
10歳のときに老論派(ノロンパ/当時の最大派閥)の政治手法を批判してしまった。
この一件によって思悼世子は老論派から恨みを買ってしまった。

始まった「父子の確執」

英祖の命令によって思悼世子が政治の一部を仕切るようになったのは14歳のときだった。
このとき、陰で思悼世子を邪魔したのが老論派の重臣たちである。

こうした批判勢力は思悼世子の悪評を英祖の耳に入れた。
息子が心配でならない英祖はその度に思悼世子を呼んで叱責するのだが、それがまた父子の確執を生んでしまった。

ただ、思悼世子自身も反省していなかったわけではない。
彼は世子としての自分の立場を自覚し、1757年、22歳のときに承政院(スンジョンウォン/王の秘書室)に反省文を提出した。

その内容は次のようなものだった。

「私は不肖の息子であり、がさつで誠実さが足りません。本来なら子として道理をわきまえなくてはならないのに、行き違いがあまりに多かったようです。それは誰の過ちでしょうか? もちろん、不肖の息子の過ちです。ようやく、自分の至らなさに気がつきました。心から後悔している次第です。今後は、自らを叱りつけて、過ちを正し、気質を変えていこうと思います。もし、このことを実行できずに過去と同じであったならば、それは私の過ちがさらにひどくなるだけです。王朝のすべての臣下たちよ、私の意思をそのまま受け取り、正しい道に導いてください。それが私の願いです」

この反省文は英祖のもとにも届けられた。

彼もよほどうれしかったようで、次のような感想をもらした。

「とても感心なことだ。まるで地上に昇ってきた太陽を見るような思いだ。早く世に知らせ、改心したことを公にせよ」

逆効果になった反省文

“地上に昇ってきた太陽を見るような思い”という英祖の言葉に、彼の清々しさがあふれている。
息子の改心を喜ぶ様子がよく表れている。

だが、英祖が喜びに浸っていたのはほんの一瞬だった。
猜疑心が強すぎる性格のせいなのか、英祖は一転して思悼世子の反省文に心がこもっていないと思い始めた。

「よく読むと、空虚な言葉を並べただけではないか」

思悼世子の反省文に対して英祖はそう疑った。

一度そう思ってしまうと、次々に疑念が沸いてきた。
思悼世子に関する過去の悪評も英祖の心に再び甦ってきた。

英祖は息子を呼んで弁明させることにした。

その場で思悼世子は、父が期待するような改心の言葉を述べられなかった。
それどころか、しまいに思悼世子は泣き崩れる有様だった。
その姿を“情けない”と嘆いた英祖は、よけいに息子を詰問したいという衝動にかられた。

「東宮(トングン/世子のこと)におかれましては、入侍(イプシ/王に謁見すること)せよという命を受ければやはり怖くなって震えてしまいます。それで、わかっていることでもすぐに答えられないようです」

重臣たちはこのように思悼世子をかばったのだが、それにもかかわらず、英祖は息子への厳しい視線を変えなかった。

ついに思悼世子は極度に緊張しすぎて前庭で気絶してしまった。
急いで医官が呼ばれ、緊急の診察を受けた。
それでも状態が良くなかったので、思悼世子は駕籠(かご)に乗せられて帰宅した。

この出来事は、思悼世子に対する英祖の親心を決定的に悪くした。
結局、思悼世子が書いた反省文は逆効果を生んでしまったのである。

告発された世子

思悼世子(サドセジャ)をめぐって朝鮮王朝が大混乱に陥ったのは、1762年5月22日のことだった。
世子が住む東宮(トングン)で働く羅景彦(ナ・ギョンオン)という者が、「世子が内侍(ネシ/王宮に仕える宦官)たちと組んで謀反をたくらんでいます」と訴え出てきたのである。

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10項目の問題行動

謀反というだけで王朝の一大事なのに、その首謀者が世子の思悼世子だという。
政権の中枢にいる高官たちの驚きは尋常ではなかった。

それは、報告を受けた英祖(ヨンジョ)も同様だった。
彼はすぐに王宮のすべての門を閉じるように命じ、緊急事態を発令した。

政権の重臣たちが集まり王に謁見した。
彼らの前に、告発者の羅景彦が引っ張りだされてきた。

それは羅景彦も望むところだった。
彼はもったいぶりながら、懐から一つの書状を取り出した。
そこには思悼世子の問題行動(非行、殺人、浪費など)が10項目にわたって書かれてあった。

それが果たして事実なのかどうか。
英祖は信じられない思いだったが、とにかく思悼世子の弁明を聞いてみたいと思った。

反乱の首謀者?

英祖は、重臣たちに対して詳細に調査せよと命じた。

そのとき、領議政(ヨンイジョン/総理大臣)の洪鳳漢(ホン・ボンハン)がこう言った。

「東宮におかれましては、普段から怖がってオドオドする癖がありますので、こんな告発を聞いたら、とうてい平常心を保てないでしょう。できるだけ静かに行ないたいと思います」

英祖もこの意見に同調した。

洪鳳漢はすみやかに思悼世子のもとに出向いた。

彼は思悼世子の岳父である。
自分の娘が思悼世子の正妻なのだ。
それだけに、洪鳳漢が思悼世子の肩を持つのが当然と思えるのだが、事実はちょっと違っている。
老論派に属する彼にはさまざまな思惑があったのである……。

それはともかく、洪鳳漢から“反乱の首謀者として告発されている”ことを聞いた思悼世子は驚愕し、あわてて英祖のもとにやってきた。
それが亥(い)の刻(午後9時頃から11時頃の間)だった。

思悼世子が英祖に謁見する前に、洪鳳漢が英祖にこう上奏した。

「東宮を罪人のようにみなしては決していけません。なにとぞ穏やかに……」

英祖はゆっくりとうなずいた。

怒りが収まらない英祖

思悼世子が王の寝殿に入ってきて前庭で平伏した。
しかし、英祖はあえて戸を閉めて、しばらく思悼世子に会わなかった。
英祖も怒りを必死に静めようとしていたのだ。
しかし、感情を抑えることはできなかった。

英祖は思悼世子を叱りつけるようにどなった。

「お前は本当に、王の孫の母(思悼世子の子供を産んだ側室をさしている)を殺したり、宮中を抜け出して遊び歩いたりしているのか。世子なのに、どうしてそんなことができるのか」

思悼世子はただ地面に伏してうなだれているしかなかった。

英祖の怒気を含んだ言葉が続く。

「側近の者たちが余に何も知らせなかったが、もし羅景彦がいなかったら、余がどうやってそれを知ることができたのか。王の孫の母は余も大変気に入っていたのに、どうして殺したりしたのか。こんなことをしていて、国が滅びないとでも言えるのか」

英祖の叱責を受けて、思悼世子はこう願い出た。

「どうか、羅景彦に会わせてください。彼に問いただしてみたいのです」

しかし、英祖はピシャリと言い切った。

「そんな必要はない。代理の者たちがすでに問いただしている」

懲罰を受ける罪人の心境

すでに思悼世子は涙声になっいる。
彼は必死に声をしぼりだした。

「私にはかんしゃく持ちという持病がありまして……」

その言葉を英祖はあっさりと突き放した。

「もう、よい。すぐにここを立ち去れ!」

きつく言われた思悼世子は仕方なく寝殿の外に出て、むしろを敷いてその上に平伏して待機した。
まさに懲罰を受ける罪人の心境だった。

英祖のもとに洪鳳漢が近づき進言した。

「殿下に忠誠を誓う者は東宮にもそうすべきです。羅景彦の不忠は今や論ずる必要もないほどです。倫理を正さなければなりません」

洪鳳漢は、思悼世子に仕えながら主人を告発した羅景彦を厳罰に処する考えをはっきり表明した。

しかし、英祖は洪鳳漢の言葉に怒り、彼を罷免しようとした。
他の重臣が取りなして英祖もなんとか機嫌をなおしたが、羅景彦を処罰しようという気はなかった。
むしろ、“世子の悪行をよくぞ教えてくれた”という心境だった。

自決の強要

重臣たちは執拗に、思悼世子(サドセジャ)を告発した羅景彦(ナ・ギョンオン)の処罰を求めた。
彼らは官僚機構の秩序を守るためにも羅景彦を生かしてはおけないと考えていたのだが、果たして理由はそれだけだったのか。
むしろ、羅景彦に生きていてもらっては困る別の理由があったのではないのか。
いずれにしても、裏には様々な思惑がからんでいた。

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処刑された告発者

重臣たちの意見を聞いたのち、英祖(ヨンジョ)はこう言った。

「確かに、東宮(トングン/思悼世子のこと)を陥れようとした罪は軽くない」

英祖の命令によって羅景彦は刑杖(ヒョンジャン/杖〔つえ〕で身体を痛めつけられる刑罰)となったのだが、意外にも羅景彦のほうから英祖に申し出があった。

「私は東宮を告発しましたので、その罪は死に値すると思います」

このように自ら処刑されることを願った羅景彦。
彼がどんなつもりで言ったのかが英祖もまったくわからなかった。

重臣の南泰斉(ナム・デジェ)が言った。

「羅景彦は取るに足らない人物ですし、自ら東宮を陥れようとしたことを白状しています。殿下におかれましては、あの男を生かしておいてはいけません」

他の重臣たちからも、羅景彦の死を求める意見が相次いで出された。
もはや英祖も温情をかけてはいけないと思いなおし、羅景彦の処刑に同意した。

こうして羅景彦は首をはねられることになったが、彼の行動は本当に不可解だった。

一体、なんのために思悼世子のことを英祖に告発したのか。

今でも謎が残るのだが、思悼世子の失脚を願う老論派の高官たちが羅景彦をそそのかしたことは間違いないようだ。

懇願する世子

羅景彦は一族の優遇を条件に命を失う役回りをさせられたのかもしれない。
いずれにしても、羅景彦の告発は思悼世子にとって大きな痛手となった。

「立ち直ってほしい。息子を信じたい」

英祖にもそういう気持ちがわずかに残っていたのだが、羅景彦の告発以後も思悼世子の乱行を指摘する声が相次いで聞こえてきた。
国の将来を心から心配した英祖は、ついに重大な決意を固めて思悼世子を呼び出した。

それは、1762年閏(うるう)5月13日のことだった(閏とは、暦の日数・月数が平年より多いことを指している。陰暦は1年が354日なので、5年に2回ほど1年を13カ月にする必要があった。その追加した月が閏で、1762年には5月の次に閏5月があった)。

おそるおそる英祖の前に出てきた思悼世子が見たのは、刀をふりかざして怒りまくっている父の姿だった。

思悼世子は冠を脱いで庭先でひざまづき、さらに頭を地面にこすりつけた。

「許してください。もう二度と意にそぐわないことはいたしません」

思悼世子はただひたすら反省の意を示した。
そんな息子に対して英祖は、たった一つの冷酷な言葉を浴びせた。

「自決せよ。今ここで自決するのだ」

この言葉を聞き、思悼世子は恐怖で真っ青になった。

地面にこすられた額からは血がふきだしていた。
その血に驚いた思悼世子は、顔をこわばらせて震えていた。

追い出された側近

重臣たちが英祖の前に集まったが、もはや彼らもどうすることもできなかった。
それほど英祖の怒りはすさまじかった。

思悼世子の息子のサン(後の正祖〔チョンジョ〕)も、現場にやってきた。

サンは思悼世子の後ろにひざまずいて、祖父に「父を許してください」と必死に懇願したが、すぐに帰されてしまった。

王が刀をふりかざして息子に自決を迫るのは、朝鮮王朝の中でもあってはならない修羅場だった。
それだけ英祖は追い込まれていたし、その怒声を間近で聞いた思悼世子も錯乱状態となった。

冷静さを失った思悼世子は、王命に従って自決しようとした。
もう他の道は断たれたと覚悟を決めたのだ。

しかし、思悼世子の側近たちが必死になって止めた。

それは王命に逆らうことではあったが、側近たちにしてみれば自らの命を捨ててでも世子を守りたいという気持ちが強かった。

ただ、その行動は英祖の怒りに油を注いだ。
英祖は護衛兵に命じて思悼世子の側近をみんな追い出してしまった。

米びつに閉じ込められた世子

英祖(ヨンジョ)は意地になって、「たったいま世子(セジャ)を廃したのだが、史官はちゃんと聞いていたのか」と大声を出した。
史官といえば正式な記録を残す官僚である。
英祖は、自分の言葉を正式な文書に残すことをはっきりと要求した。

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懇願する世子

思悼世子(サドセジャ)は泣き続けていた。
震えがとまらず、顔は恐怖におののいていた。

彼はいったん英祖の前を離れて、外に出ていた側近たちに近づき、「どうすればいい? 誰を頼ればいいのか」と尋ねた。

側近の1人が「再び殿下の前に出て処分を待つしかありません」と答えた。

確かに、その通りだった。
この場から逃げても、有利になることは一つもなかった。

思悼世子は泣きながら再び前庭に出て、ひざまずいて地面に額をこすりつけた。

「過ちを改めて今後は正しく生きますので、どうか許してください」

思悼世子は何度も何度も哀願した。

すると、英祖は驚くべきことを話し始めた。

「映嬪(ヨンビン)が余になんと言ったと思う? そなたがいかに世子にふさわしくないかを泣きながら訴えてきたのだ。もはやこれまでだ。そなたが自決しないかぎり、この国は安泰とならない」

この言葉を聞いた誰もが信じられない思いだった。

生母の言葉の重み

英祖が言った“映嬪”とは、思悼世子の生母の映嬪・李(イ)氏のことある。
英祖の側室で、思悼世子の他に3人の王女を産んでいる。

<生母が、こともあろうに息子の乱行を訴えてくるとは……>

重臣たちも映嬪・李氏の真意をはかりかねたが、英祖が思悼世子の自決を決意した背景には、思悼世子の生母の言葉が大きな影響を与えていたのである。

たまらずに、重臣の1人が進み出た。

「おそれながら殿下におかれましては、王宮の奥にいる1人の女性の言葉によって、国本(クッポン/王の後継者のこと)を動揺させようとなさるのですか」

この問い掛けは、英祖のそばにいた多くの人たちの心にも響いた。
一同がうなずく中で、英祖だけが怒りを増幅させて思悼世子をにらみつけて刑の執行を迫った。

もはや誰も英祖を制止することはできなかった。
彼は息子が自決しないと見なすと、米びつをもってこさせた。

「お願いです。命だけは助けてください」

思悼世子は最後に哀願したが、英祖はそれを聞かずに息子を米びつに閉じ込めさせた。
そばにいた誰もが、その異常なやり方に涙を流さざるをえなかった。

世子の仲間が次々に処刑された

王朝の未来を担う世子が、宮中で米びつに閉じ込められて泣き叫んでいた。

しかも、それを命じたのが、実の父である王だった。
重臣たちが信じたくない気持ちになるのも当然だった。

その中で、英祖だけは鬼のような形相で米びつをにらみつけていた。
やがて彼は「絶対に米びつを開けてはならない」と厳命して寝殿に戻っていった。

米びつからもれてくる嗚咽(おえつ)……。
それは、王宮にいる誰もの心を苦しくかきむしった。

英祖には、思悼世子を許す気持ちが毛頭なかった。
息子を米びつに閉じ込めた翌日の1762年閏5月14日に、宦官の朴弼秀(パク・ピルス)と尼僧の假仙(カソン)が処刑された。
2人は荘献をそそのかした罪に問われたのだ。

罪状は、朴弼秀が「世子に従って遊興して乱行に加担した」であり、假仙が「もともと尼僧なのに髪を長くして宮中に入り世子を誘惑した」というものだった。
2人は即座に斬首されたのだが、他にも世子と遊興した妓生(キセン/宴席で歌や踊りを披露する女性)の中で5人が処刑されている。

本当に哀れなのは妓生たちである。
彼女たちは仕事で思悼世子の宴席に出ていただけなのに、完全にとばっちりを受ける形になった。

罪もなき彼女たちを処刑するほど、英祖の思悼世子に対する怒りはまったくおさまっていなかった。

それは、6日が経った閏5月19日になっても同様だった。
この日になって、英祖は思悼世子を補佐していた側近のほとんどを罷免した。
これは思悼世子の復帰が絶対にないことを明確に示したものだった。

不可解な生母の意図

米びつに閉じ込められた思悼世子(サドセジャ)の生死はどのようになっていたのだろうか。
食料も水も与えられず狭い空間に閉じ込められたままの思悼世子は、まだ生きていたのかどうか。
それは誰にもわからないことだった。

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死後に名誉を回復

思悼世子が米びつの中で息絶えていることがわかったのは1762年閏5月21日のことで、閉じ込められて8日目だった。

少しでも想像力を働かせれば、思悼世子がどんなに苦しんだかがすぐにわかる。
元来が怖がりの彼は手足を伸ばせないような狭い空間に押し込められて、恐怖の中で何日も苦悶した。

しかも、世子ともあろう人が、いつ亡くなったのかも確認できないのである。
あまりにむごい死に方だった。

思悼世子が亡くなったという知らせを受けた英祖(ヨンジョ)は、息子を米びつに閉じ込めた張本人でありながら、意外にも深い哀悼の意を表した。

「どうして30年近い父と子の恩義を感じないでいられるだろうか。世孫(後の正祖のこと)の心の内を考え、大臣たちの意思を推し量れば、その名誉を回復して諡〔おくりな/死後に贈る尊称〕は思悼世子としたい」

朝鮮王朝の王統を守るため

息子の死が確認された当日に英祖は冷静だった。

しかも、罪人扱いしていたのに、死が確認されるとすぐに“思悼世子”という諡を贈っている。

これは“世子を思い、その死を悼〔いた〕む”という意味だが、ここまでりっぱな諡を用意しているくらいなら、なぜ息子の命を救わなかったのか。

英祖にしてみれば、朝鮮王朝の王統を守るためにやむをえなかったという気持ちが強かったかもしれない。

朝鮮王朝の歴代王の中では10代王・燕山君(ヨンサングン)と15代王・光海君(クァンヘグン)という2人の王がクーデターによって追放されているが、思悼世子もそこに名を連ねないようにするために、あえて英祖は泣いて思悼世子を死に至らしめたという見方もできる。

あまりに手回しよく“思悼世子”という諡を用意しているところに、英祖のただならぬ決意を感じ取ってしまう。

復讐を果たした息子

思悼世子は“悲劇の王子”として名を残している。

一方、我が子を告発して“米びつ餓死事件”の一端を担った映嬪(ヨンビン)・李(イ)氏はその後どうなったのだろうか。

彼女は思悼世子の死から2年後の1764年7月に他界している。
そのときの英祖の悲しみ方は尋常ではなかった。

しかも、英祖は映嬪・李氏の葬儀に際して、「側室の中でも第一等の礼にのっとって行なえ」と命じている。
まさに特別待遇だった。

「朝鮮王朝実録」でも映嬪・李氏については「側室として40余年間務め、慎み深く沈黙を守り、不幸なことにも適切に対処し、功労が多かった」と記している。

そんな女性がなぜ息子の不利になることを告発したのだろうか。
今となっては謎に包まれている。

結果的に、思悼世子は非業の最期を遂げたが、彼の息子が英祖の後を継いで名君として称賛された。
それが22代王・正祖(チョンジョ)である。
ドラマ「イ・サン」の主人公になった王だ。

正祖は即位後ただちに父親を陥れた者たちを厳しく処罰している。
思悼世子の復讐は息子によって果たされたのである。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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