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簡潔に読む!韓国の歴史 5・6

2016’11.26・Sat

第5・6回/善徳女王の生涯

676年に朝鮮半島を初めて統一した新羅(シルラ)には、かつて3人の女王が誕生している。
順に、善徳(ソンドク)女王、真徳(チンドク)女王、真聖(チンソン)女王である。

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小さいころから頭脳明晰

3人の女王の在位期間を見ると、善徳女王が632年から647年、真徳女王が647年から654年、真聖女王が887年から897年まで、となっている。

つまり、新羅で最初に女王になったのが善徳女王なのである。

この「史上初」という意味は非常に大きい。
そんな女王の姿を、歴史書(主に『三国史記』)をもとに追ってみよう。

善徳女王の「善徳」とは、彼女の死後に付けられた諡(おくりな)である。
もともと、彼女の名前は徳曼(トンマン)と言う。

残念ながら、彼女が生まれた年は正確にわかっていない。
新羅の26代王の真平(チンピョン)王の長女として生まれ、小さいころから頭脳明晰で情が深かった。

父の真平王は579年に即位して632年に亡くなっている。
つまり、50年以上も王位に就いていたわけで、そのあとに王の座を引き継ぐのは大変だった。
しかし、才能を認められていたからこそ、徳曼は王に推されたのだ。

牡丹の花には香りがない

善徳女王がいかに聡明であったかを物語るエピソードがある。
それは、まだ徳曼が王になる前の話だった。

中国から牡丹の花の絵と種子が送られてきたので、父親の真平王は、娘の徳曼に喜んで見せた。

すると彼女は、牡丹の種子を見ながら「この牡丹の花は美しく咲くでしょうけど、きっと香りがないはず」と言った。

真平王は娘が変なことを言いだすので、笑ってしまった。

「なぜ花に香りがないとわかるんだ」

真平王がそう尋ねると、徳曼は堂々とこう言い切った。

「まず、牡丹の花の絵をご覧ください。この花に蝶がまったくいませんよね。たとえば、すてきな美人であれば、男性が次々に寄ってくるでしょうし、美しい花に香りがあれば、蝶や蜂が寄ってくるものでは……。この花を見るかぎり、いくら美しくても蝶や蜂がまったくいませんから、たぶん、香りがないのでしょう」

そう言われて父親の真平王も半信半疑だったが、実際に牡丹の種子を蒔いてみると、花には香りがなかった。

まさに徳曼の言うとおりになったのである。

この話が広まると、誰もが「いったい彼女はどれだけ頭がいいのだろうか」と大いに感心した。

民衆のための政治

632年、徳曼は新羅の王に即位して善徳女王となった。

彼女はすぐに、民の生活を気遣う善政を行なった。

即位1年目の冬、領土の各地に使者を派遣して、一人暮らしの老人、寡婦、孤児など生活が苦しい者たちを慰問している。

翌年の633年には、春に大赦を行ない、各地の税金を1年間免除するという政策も実施した。

この他にも、毎年のように使者を各地に派遣して、恵まれない人たちを慰問しており、王宮にいながらでも民衆の生活を心配し、少しでも手助けになるような政治を実行していった。

また、善徳女王が特に力を入れたのが中国大陸を支配していた唐と良好な関係を結ぶことだった。

そのために善徳女王はしきりに使者を唐に派遣して朝貢した。

当時、新羅は朝鮮半島北部を占める高句麗(コグリョ)と西南部を占める百済(ペクチェ)と激しく領土争いを繰り広げていた。

善徳女王としては唐の支援を得ることがとても大事だと考え、あえて身を低くして唐に朝貢したのである。

もちろん、高句麗や百済と激しく対峙する戦時体制だったので、敵からの攻撃に備える準備も怠らなかった。

638年には、高句麗が新羅の北側の領土を攻めてきて、民衆たちが驚いて山の中に逃げ込むという出来事があった。

善徳女王は、民衆に落ちつくように呼びかけ、すぐに大軍を北方に派遣して高句麗の兵と戦い、これに勝利した。

善徳女王は、新羅(シルラ)の学問振興にも並々ならぬ熱意を見せた。
640年には、優秀な学生たちを唐に派遣して、唐の有名な学校に入学させてほしいと頼み込んでいる。
この時期、唐は多くの優れた儒教学者を都に集めていたので、新羅から派遣された学生たちは、留学先でさぞかし貴重な学問を積んだことだろう。

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恐ろしいほど勘が鋭い

善徳女王は、王位についている間に神がかり的な鋭さを発揮することが何度もあった。
その象徴的な出来事が636年の夏に起こっている。

王宮の西に玉門池という池があったのだが、そこにヒキガエルが大量に群がるようになった。

善徳女王はこの噂を聞いて、その様子を見た。

そのあとで近臣を呼んでこう言った。

「ヒキガエルは、どれも怒ったような目をしているので、兵士の相であるに違いない。我が領土の西南の端に玉門谷という谷がある。ヒキガエルの怒った目から判断すると、そのあたりに必ず敵の兵が潜んでいる」

善徳女王はそう言うと、次に「玉門谷を捜索して、敵がいれば先制攻撃で討ち取れ」と命じた。

新羅の兵が指示された場所に行ってみると、確かに百済の500人ばかりの兵が潜んでいた。

ただし、百済軍は新羅がまだ気付いていないと思って油断していた。

そこで、新羅軍は不意をついて百済軍を襲い、これを全滅させた。
善徳女王が気付かなければ、逆に百済軍に襲われて新羅は窮地に陥っていたかもしれない。

機先を制した善徳女王の勘の鋭さは、新羅の勇猛な将軍でさえも恐れおののくほどであった。

女性であるがゆえの苦悩

善徳女王がいくら善政を行なっても、女性であるということから各方面から軽んじられたことも事実である。

そうした蔑視は、敵対していた高句麗や百済で甚だしかったが、友好関係にあった唐ですら、隙があれば善徳女王を退位させようとした。

具体的に、唐は新羅を支援すると見せかけて国を乗っ取ろうという動きさえ見せていたのである。

その象徴的な出来事が起こったのは、643年のことだった。
善徳女王は使者を唐に派遣して、こう願った。

「高句麗と百済の攻撃が日に日に激しくなっています。我が新羅は、今後も唐の帝様の命令に従いますので、どうか援軍を派遣して助けてください」

しかし、唐の帝は使者にこう答えた。

「いろいろな策をめぐらせて汝の国を助けることはできるが、そもそも、汝の国は女性が王になっているので隣国の軽蔑を受けているのではないか。そのことで敵国からの侵略が多くなって、ゆっくり休むこともできない。そこで提案だが、私の親族の1人をそちらに遣わして汝の国の王とすればどうか。当然、王が行けば軍も一緒に行って護衛することになるのだ……」

つまり、唐の言い分は、援軍を出すかわりに自分たちの親族を王にさせてくれということである。

暗に善徳女王の退位を促す話だった。
当然ながら、新羅としてはこれを受け入れるわけにはいかなかった。

善徳女王も、どれほど悔しかったことだろうか。
新羅で初めての女王には、女性であるがゆえの苦悩も多かったのである。

国力増強の立役者

善徳女王は、即位してからずっと高句麗や百済の攻撃を受けて苦しい国政を強いられていた。

それでも、彼女の大きな功績は644年に金庾信(キム・ユシン)を大将軍に任命したことである。

大将軍といえば今でいう総司令官。
この人選を誤ると国の存亡にかかわるのだが、金庾信は戦略性に優れた人物で、重要な職務に就くと、大きな働きをして新羅を強大な国家に導いていった。

結局、新羅は唐と連合して百済と高句麗を滅ぼし、最後には、朝鮮半島を占領しようという野心を持った唐も追い出して676年に統一国家を築いた。

その功労者の金庾信を抜擢したのが善徳女王であり、人事の面でもすばらしい才能を発揮したのである。

その善徳女王は最後まで新羅の行く末を案じながら、統一の29年前の647年に亡くなった。

治世は15年だったが、新羅の国力増強に大きく貢献した人生だった。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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