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朝鮮王朝おもしろ人物列伝 第十五回

2016’12.12・Mon

第15回 最大の屈辱を受けた王・仁祖

卓越した手腕で政変を成功に導いた16代王・仁祖(インジョ)。
しかし、即位してからの彼を待つのは苦難の連続だった……。
「朝鮮王朝最大の屈辱」を味わったと言われる仁祖の生涯に迫る。

仁祖が屈辱の謝罪をした三田渡には碑が残されている
3_20161212101926f4c.jpg光海君派の横暴

朝鮮王朝14代王・宣祖(ソンジョ)は、側室から13人の息子を儲けるが、最初の正室から息子が誕生することはなかった。
「正室の息子を世子(王の後継者)にしたい」という明確な思いがあった宣祖は、ギリギリまで後継者の指名を遅らせていた。
しかし、状況は1592年になると状況は一変する。

豊臣秀吉による朝鮮出兵が始まったのだ。
混迷する戦時中に世子がいないことは問題だった。
こうして、宣祖は世子を側室の息子から選ぶことになった。

候補となったのは、長男の臨海君(イムヘグン)と二男の光海君(クァンヘグン)だ。
宣祖は様々な思惑の末に光海君を世子に指名する。(詳しくは第12回 15代王・光海君編より)

1598年、豊臣秀吉の死によって朝鮮出兵は幕を下ろした。
その2年後、宣祖の最初の正室が亡くなった。
宣祖は新たな正室として仁穆王后を娶り、彼女は1606年に念願の息子・永昌(ヨンチャン)大君を産んだのである。
これが、後の大きな火種となった。

1608年、宣祖が亡くなり世子だった光海君が15代王として即位した。
しかし、宮中では光海君の即位を認めない臣下が多く、彼らは臨海君派や永昌大君派として露骨に機会をうかがうようになった。

当然、光海君派の人間からすれば面白くない事態だ。
彼らは光海君の王位を盤石にするために臨海君を処罰。
さらに、大妃である仁穆王后を幽閉した後、まだ幼い永昌大君まで手にかけてしまう。

その魔の手は、臨海君と永昌大君に留まらなかった。
新たな標的となったのは、光海君の異母弟にあたる綾昌君(ヌンチャングン)。
彼は王宮内で「もし彼が王だったら」と言われるほど優秀だったが、光海君派に謀叛の罪を着せられて殺害されてしまう。

親族であろうとも容赦なく処罰する光海君派の横暴は、多くの敵を作っていた。

仁祖が受けた屈辱

殺された綾昌君には、綾陽君(ヌンヤングン)という兄がいた。
彼は弟を殺した光海君に深い憎しみを抱いて反乱を決意する。

1623年3月13日、綾陽君はついに大規模な反乱を起こした。
同志を募り入念な計画を立てた綾陽君の手腕は見事だった。
彼は王宮の重要な拠点を次々と押さえたのである。
そして、綾陽君はクーデターに大義名分を持たせるために、幽閉されている仁穆王后を解放した。

こうして、綾陽君は仁穆王后の許しを受けて16代王・仁祖として即位となった。

卓越した戦略性と優れた統率力によって、クーデターを成功させた仁祖の治世に多くの人が期待をもった。
しかし、彼の治世は困難の連続だった。

なんと、即位してすぐにクーデターの功臣・4_201612121031306ac.jpg(イ・グァル)が反乱を起こしたのだ。
4_201612121031306ac.jpgの手際も見事で、一時は首都を占領までされた。
仁祖はなんとか4_201612121031306ac.jpgの反乱を鎮静することができたが、この動乱の結果、外敵に対する備えがおろそかになってしまった。

1627年、北方の異民族である後金は、仁祖が見せた隙を見逃さず朝鮮王朝に侵攻した。
当時の朝鮮王朝は、中国大陸の大国・明を崇める一方で、他の異民族を「辺境の蛮族」と見下していた。
これが、後金の怒りを買ってしまい、侵攻は一層激しくなるばかりだった。

1636年12月、後金は国名を清に変えて朝鮮半島に大軍で攻めてきた。
朝鮮王朝側は、清の圧倒的な軍事力の前に降伏するしかなかった。

降伏を認めた清が仁祖に求めたのは、彼自身が直接、清の皇帝の前で膝を折って謝罪すること。
こうして、仁祖は漢江(ハンガン)の川沿いにある三田渡(サンチョンド)で、3回ひざまずいて9回頭を地面にこすりつけるという屈辱的な謝罪をさせられる。

この一件は朝鮮王朝最大の屈辱として、「三田渡の屈辱」と呼ばれた。

さらに、清は仁祖の3人の息子を人質として清に連れ帰ってしまった。
息子3人と別れるとき、仁祖は慟哭(どうこく)して涙を流し続けたという……。

外国の文化にかぶれた世子

仁祖の3人の息子は、当時の清の都であった瀋陽(しんよう)で人質生活を始めた。
三男は幼すぎるという理由ですぐに帰国することができたが、長男の昭顕(ソヒョン)と二男の鳳林(ポンニム)はなかなか解放してもらえなかった。

ただし、2人が清に抱いた感情は好対照だ。
昭顕は、西洋の文物にまで触れることができた瀋陽での生活が興味深くなり、異国の文化を大いに満喫した。
一方の鳳林は自分を人質にしている清を憎み、そこでの生活をずっと忌み嫌った。

2人の帰国が許されるのは1645年になってからだった。
昭顕はすぐに父のいる王宮に向かった。
誰もが父子の感動の対面を予想したが、仁祖の対応は冷めきっていた。

実は、昭顕の清での生活ぶりは詳しく仁祖に伝えられていた。
さらに、清が反骨心を見せる仁祖を廃位にして、昭顕を即位させようとしているという噂まであったのだ。

王宮を追われると思った仁祖が、昭顕に冷たくあたるのも理解できる。

しかし、父がそんな気持ちを抱いていることに気が付かない昭顕は、仁祖の前で清の文化のすばらしさを力説。
仁祖は激怒すると、手もとにあった硯(すずり)を世子の顔に投げつけた。
こうして、父子の不和は決定的なものになった。

この2カ月後、昭顕は原因不明の病を患って、苦しみながら世を去った。
帰国からたった2カ月での死。
その死因は仁祖による毒殺だという説が有力だ。

それを決定づけたのが、昭顕の葬儀だ。
仁祖は世子である昭顕の葬儀を庶民と同じ扱いでとても簡単に済ましたのだ。
さらに、新たな世子選びにも不審な点がある。

本来ならば、昭顕が死ねば彼の息子が世子に指名されるはずなのに、仁祖は二男の鳳林を新たな世子に指名したのだ。

普通なら考えられないことだ。
この2つの事例は、仁祖毒殺説を今も根強いものにしている。

文=康 大地【コウ ダイチ】

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