『華政(ファジョン)』解説!
2017’01.07・Sat
仁穆(インモク)王后に恨まれた光海君(クァンヘグン)
韓国時代劇『華政』に登場する光海君と仁穆王后。
2人は形のうえでは母と息子なのだが、激しく敵対した。
その理由は何だったのだろうか。

兄弟同士の王位争い
1608年に14代王・宣祖(ソンジョ)が世を去ると、後継者をめぐる争いが起きた。
すでに「跡継ぎは光海君で決まり」という流れだったが、兄の臨海君(イメグン)を支持する一派も巻き返しを狙っていた。
そんな折り、中国大陸で巨大帝国を築いていた明も、後継者問題に憂慮を示した。
明といえば、朝鮮出兵のときも援軍を送ってきてくれた大事な後ろ楯。
朝鮮王朝も明の意向になかなか逆らえない弱みがあった。
明は後継者問題の調査のために使者を派遣すると朝鮮王朝に伝えてきた。
光海君の一派は、臨海君が明の使節を利用してクーデターを起こすことを恐れ、機先を制して明の使節が来る前に臨海君を配流した。
こうして光海君の15代王の座は安泰となった。
クーデターが勃発
光海君の一派は1609年に臨海君を殺害。
さらには、宣祖と継妃・仁穆王后の間に1606年に生まれていた異母弟の永昌大君(ヨンチャンデグン)も配流した後に1614年に殺している。
このとき、永昌大君はわずか8歳だった。
このように、光海君の即位当初は血なまぐさい骨肉の争いが多かった。
それでも政治的に光海君は宣祖の後を継いで、荒廃した国土の復興や、減税などに手腕を発揮した。
しかし、次第に王朝内部の腐敗が甚だしくなった。
王の威光を利用して側近が国政を乱し、官僚の賄賂も横行した。
こうなると、兄弟を殺害したという光海君一派の罪が蒸し返された。
1623年、光海君は仁祖(インジョ)が起こした政変によって王の座を追われた。
光海君の斬首を命令
光海君は、王位継承の過程で実兄や異母弟を殺しているので弁解の余地がない。
結果的に、多くの人の恨みを買うことになった。
致命傷になったのは、義理の母である仁穆王后を冷遇したことだ。
彼女の大妃(王の母)という身分を奪ったうえで幽閉してしまったが、それは「孝」を最高の徳目と考える儒教社会ではあるまじきことだった。
この非道が、仁祖たちが起こしたクーデターに大義名分を与えたのである。
光海君に我が子を殺されてしまった仁穆王后は、クーデター成功後、仁祖に対して執拗に、光海君の斬首を命令した。
『朝鮮王朝実録』によると、仁穆王后はこう言った。
絶対に恨みを晴らしたい
「(光海君は)同じ空の下で一緒にいられない仇である。私が直接、その首を切り落としたい」
「私のために復讐してくれるのが孝行というものではないのか」
「母子の道理を破ったので、私は絶対に恨みを晴らさなければならない。これだけは、絶対に譲ることができないのだ」
仁穆王后は激烈な言葉を仁祖に何度もぶつけたが、仁祖は最後まで仁穆王后の言葉に従わなかった。
先王を殺したりすれば、自分が後世で暴君扱いされることが目に見えていたからである。
結局、光海君は流罪となって斬首を免れ、1641年に流罪先の済州島(チェジュド)で世を去った。
文=康 熙奉(カン ヒボン)
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