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『華政』光海君(クァンヘグン)の実像1・2

2017’01.14・Sat

『華政(ファジョン)』に登場!光海君(クァンヘグン)の実像1・2

光海君はクーデターで廃位にされた王ということで、かつては暴君というイメージが先行していました。
しかし、その後の歴史研究が進んでくると、「そうではないのではないか」と評価が変化してきました。
果たして、実際の光海君はどのような王だったのでしょうか。

DSC_0029.jpg

庶子出身の王

光海君の父親は14代王・宣祖(ソンジョ)です。
彼は朝鮮王朝で初めて側室から生まれた王でした。
13代王までは、すべて王の正室から生まれています。
それが嫡子なのですが、宣祖の場合は庶子になります。
朝鮮王朝には厳しい身分制度があり、庶子出身の人は、ほとんど出世できませんでした。
そういう庶子から王になったということで、宣祖は大変なコンプレックスを持っていました。
それだけに、自分が指名する世子(セジャ/王の正式な後継者)は正室が産んだ息子を当てたいと思っていたのですが、宣祖の正室は身体が弱くて子供ができなかったのです。
結果的に、側室が産んだ息子の中から選ばざるを得ませんでした。

捕虜になった臨海君

世子の候補は2人いました。
臨海君(イメグン)と光海君です。
2人とも同じ側室から生まれた兄弟で、臨海君が兄です。
伝統からいくと、世子には兄の臨海君がふさわしいのですが、性格が粗暴でした。
一方、弟のほうが優秀だったために、光海君を推す声が強くなり、最終的に宣祖は彼を世子に指名しました。
当時、世子の決定には中国大陸の明の許可が必要でした。
その明の許可を待っている段階で、1592年に朝鮮出兵が起こり、朝鮮半島が戦乱に巻き込まれました。
その際に、臨海君が加藤清正の軍の捕虜になってしまいます。
地方に行って義勇軍を集めようとしたときに臨海君がつかまってしまい、以後も捕虜として連れまわされました。
臨海君にとっては大変な屈辱であり、釈放された後も酒浸りになって生活が乱れてしまいました。

宣祖が長生きしていれば……

一方の光海君。
彼は地方で義勇軍を組織して戦功をあげました。
これによって光海君はどんどん評価を高めて、彼の立場は磐石になったのですが、戦乱が終結しても明からの許可がまだ出ませんでした。
明は「なぜ年長の臨海君を第一に考えないのか」と疑問を呈していたのです。
宣祖は光海君を世子に指名したあとも、実はまだ嫡子にこだわっていました。
最初の正室が亡くなった後、彼は仁穆(インモク)王后と再婚しました。
その仁穆王后が、1606年に宣祖の嫡子を産みます。
それが永昌大君(ヨンチャンデグン)です。
宣祖が長生きしていれば、仁穆王后が産んだ永昌大君が光海君に代わって世子になっていたことでしょう。
しかし、宣祖は1608年に世を去ってしまいました。

明が調査団を派遣

実母である仁穆王后としても、ぜひ永昌大君を次の王にしたかったことでしょう。
しかし、永昌大君はまだ2歳で言葉も満足に話せません。
これでは、王の後を継ぐことはできません。
予定通り1608年に光海君が15代王として即位しました。
明は「兄がいるのになぜ弟が王を継ぐのか。
しかも、正室が産んでいる息子もいる。
光海君が王になる根拠が希薄だ」という理由で、なかなか王位継承の許可を出しません。
そのうち、明が調査団を派遣することになりました。
こういう事態となり、光海君は焦りを感じました。

光海君を支持する政治的な派閥が大北(テブク)派です。
大北派は光海君が王であり続けるかぎり大出世を果たせるので、自分たちの地位を守るために暗躍します。
主導的に動いていたのが金介屎(キム・ゲシ)という女官です。

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命を奪われた永昌大君

1609年、大北派は光海君への批判を繰り返していた臨海君(イメグン)を殺します。
さらに1613年、永昌大君(ヨンチャンデグン)が仁穆(インモク)王后の父親と図って光海君の王位を奪おうとしたという容疑を作り出します。
その挙げ句、大北派は仁穆王后の父親を死罪にして、母親を奴婢(ヌヒ)にしてしまいます。
そして、永昌大君を江華島(カンファド)に流して、最後にはオンドル(床暖房)を熱して永昌大君を蒸し殺します。
永昌大君はまだ8歳という幼い年齢で、母親の名前を絶叫しながら命を奪われました。
このとき、仁穆王后は西宮(ソグン/現在の徳寿宮〔トクスグン〕)という離宮に幽閉されていました。

朝鮮王朝は儒教の国

仁穆王后は、形の上では光海君の母親になります。
大妃(テビ)という朝廷の最長老なのです。
朝鮮王朝は儒教を国の教えにしていたので、長幼の序を厳格に守り、親孝行こそが最高の徳目でした。
王といえども、大妃に対しては大変な尊敬を払わなければなりませんでした。
しかし、大北派は仁穆王后の大妃の資格も剥奪し、西宮に長く幽閉しました。
こうした非道な行ないが後に糾弾されます。
1623年にクーデターが起こり、光海君は王宮から追放されてしまうのです。
クーデターの首謀者は綾陽君(ヌンヤングン)。
彼は16代王・仁祖(インジョ)として即位します。

最悪の暴君

仁祖は、14代王・宣祖(ソンジョ)の五男である定遠君(チョンウォングン)の息子で、弟が綾昌君(ヌンチャングン)でした。
その綾昌君が、光海君の王位を脅かそうとした罪に問われて死罪になっており、弟を殺されたという個人的な恨みがありました。
臨海君や永昌大君にしても、骨肉の争いの末に殺されており、光海君と大北派に恨みを持っている人は多かったのです。
そうした恨みをうまく吸い上げて仁祖はクーデターを成功させました。
以後、王宮を追放された光海君は、仁祖の意図によって「最悪の暴君」に仕立てあげられました。
暴君といえば、10代王・燕山君(ヨンサングン)があまりに悪名が高いのですが、光海君も同様だというわけです。
近年になって歴史の研究が進むと、光海君は暴君ではなくて、むしろ名君であったという声が起こってきます。
そのあたりをもう少し説明しましょう。

王宮の復興に尽力

光海君が1608年に即位したときは、豊臣軍による朝鮮出兵からわずか10年で、国土がまだ荒廃しており、王宮のほとんどが焼失していました。
戦乱の後遺症があまりに大きかったのです。
王宮がないと朝廷として行政ができませんので、光海君は王宮の復興に力を入れます。
また、朝鮮通信使を派遣しながら徳川幕府との関係を強化して、東の隣国に対する憂いをなくしました。
さらに光海君が力を入れたのが、北方の異民族国家である後金との外交関係でした。
後金は、今でいう中国の東北部、かつての旧満州から興った国です。
17世紀の初めは明が中国大陸を支配していましたが、かなり斜陽になっており、日の出の勢いの後金と激しく争うようになります。

(第3回に続く)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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