FC2ブログ

『華政』光海君(クァンヘグン)の実像3・4

2017’01.16・Mon

『華政(ファジョン)』に登場!光海君(クァンヘグン)の実像3・4

1619年、中国大陸を支配していた明は、異民族の後金に惨敗してしまいます。
やはり、明の国力が衰えていたのです。
両国の間に入って、朝鮮王朝はどういう態度を取ったのでしょうか。

DSC_0007.jpg

危機感を持った光海君

朝鮮王朝は建国以来、明を崇めていました。
とにかく、小さな国は大きな国に逆らってはいけない、という考え方でした。
そういう主旨のもとで、国事に関しても明にお伺いを立てていたし、豊臣軍の朝鮮出兵のときには援軍を派遣してもらったのです。
ところが、光海君は危機感を持っていました。
「明は国力が傾いていて、後金には勢いがある。あまりに明に肩入れしすぎると、後金によって滅ぼされる恐れがある」
光海君はそう心配していたのです。

生き残るための二股外交

明と後金の1619年の戦いのときも、明は朝鮮王朝に対して援軍を要請しています。
「朝鮮出兵のときにあれだけ助けたではないか。今度はそちらが援軍を出してくれ」というわけです。
確かに、朝鮮出兵のときの恩義があります。
しかし、光海君は熟慮の末に、すぐに援軍を出さない決断をしました。
後金ににらまれたくなかったからです。
何度も明から催促がきて、最後にようやく最小限の援軍を出しましたが、後金に対しても使者を出して「あまりにも明に言われたので、やむを得ず援軍を出しました。けれど、歯向かうつもりはありません。あくまでも中立でいたいのです」と説明しています。
いわば、明と後金の両方にいい顔をする二股外交です。
地政学的に強い国に囲まれた小国が生き残る道が二股外交だったのです。

庶民の減税につながる大同法

結果的に、後金が明を滅ぼしますが、朝鮮半島はこの段階では安泰でした。
それは、光海君の二股外交の成果であると言えます。
もう1つ、光海君の政治的業績と言われているのが大同法を広めようとしたことです。
大同法は、税金を土地の所有に応じて支払うという法律で、直接的に一般庶民の減税につながるものです。
両班(ヤンバン)や地主階級には不利になりますが、土地を持たない一般庶民は大歓迎でした。
この大同法を都の周辺から施行しようとしたのが光海君です。
しかし、税金が増えるということで、大地主である特権階級から恨まれます。
結局、「明を最後まで支援しなかったこと」「仁穆(インモク)王后を幽閉したこと」「地主階級に不利な大同法を強行しようとしたこと」などを糾弾されて、光海君はクーデターを起こされたのです。

記録に悪く書かれた光海君

クーデターの動きを察知して何らかの手を打てなかったという意味では、光海君にも甘さがあったと思います。
結局、彼はクーデターによって廃位となりました。
歴史用語の1つに、「悪い政治を正す」という意味の「反正(パンジョン)」があります。
朝鮮王朝の歴史で言うと、1506年に暴君の燕山君を追放して11代王・中宗(チュンジョン)が即位した「中宗反正(チュンジョンパンジョン)」と、1623年に光海君が追放されて仁祖が即位した「仁祖反正(インジョパンジョン)」が有名です。
光海君が追放された後、彼の統治時代の歴史が『朝鮮王朝実録』に記録されました。
クーデターを成功させた仁祖の一派が作りましたので、自分たちのクーデターを正当化するために光海君を大変な悪者に描写しています。
それが、後々まで朝鮮半島で光海君が暴君と言われた理由です。

『朝鮮王朝実録』を読んでいくと、光海君に対してひどい蔑称を使っていて、光海君を悪者にしようという意図が露骨に見えます。
果たして、光海君は本当に、単純な暴君だったのでしょうか。

DSC_0054.jpg

光海君を追放する号令

燕山君(ヨンサングン)を追放した1506年の「中宗反正(チュンジョンパンジョン)」は、暴政を終わらせたという意味において、本当の「反正」であることに間違いありません。
しかし、仁祖(インジョ)は、悪い政治を正すというより個人的な恨みを晴らすために決起しました。
光海君の一派によって殺された弟の復讐がクーデターの目的だったのです。
つまり、事情は個人的であり、大義はありませんでした。
仁祖にも後ろめたい気持ちがあったのでしょう。
クーデターを起こしたとき、西宮(ソグン)に幽閉されていた仁穆(インモク)王后をかつぎだそうとしました。
そこで、仁祖は使者を送って仁穆王后に「光海君を追放する号令を出してください」と頼みます。

光海君が先王であった事実

仁穆王后は父と息子を光海君の一派に殺されています。
これまでの恨みが晴れるのだから仁穆王后は喜んで号令を出すと思いきや、むしろ激しく怒りだします。
「この10年、誰も見舞いにこなかった。どれだけ寂しい思いで暮らしていたことか。いまさらやってきて、どういうつもりなのか」
大変な剣幕でした。
あわてた仁祖は自ら西宮に行って、まさに土下座のような形で仁穆王后に何度も詫びを入れて、ようやく機嫌を直してもらいます。
このとき、仁穆王后が出した条件が、「光海君の首をはねろ」ということでした。
仁祖としては、とうてい呑めない条件です。
「いくら王宮から追放したとはいえ、先の王の首をはねてしまえば、非道な王と評されるおそれがある。
歴史でどんな扱いを受けるかわからない」と彼は考えたのです。
しかし、仁穆王后も絶対に譲りません。
仁祖との間で押し問答が続きます。
仁穆王后の意見は強硬でしたが、仁祖も最後までそれに抵抗して、光海君の首をはねることはしませんでした。
少なくとも、光海君が先王であった事実を重んじたのです。

遠島への流罪

光海君は、正室の柳(ユ)氏や息子夫婦と一緒に江華島(カンファド)に流されました。
柳氏は、江華島に行く船の中で、夫である光海君に「一緒に身投げして心中しましょう」と言いましたが、光海君はそれを拒絶して生き抜く覚悟を決めました。
江華島では、息子夫婦が陰謀にはめられて自害させられます。
それを悲観した柳氏は自ら命を絶ちます。
それでも光海君は生き続け、最後には江華島から済州島(チェジュド)に移されます。
済州島は極悪人が流される流刑の島ですが、光海君はそこまで遠島に行く羽目になるとは想像さえしていませんでした。
船も幕を張って、どこに向かっているかを隠し通して済州島に行ったと言われています。
済州島に着いたとき、光海君は島の名前を聞いて絶句しました。
そばにいた役人が「王であらせられるときに、悪い官僚たちの口車に乗らなければよかったのでございますが……」となぐさめたそうです。

仁祖の外交は大失敗

よほど済州島の水が合ったのか、光海君は余生を延ばして、1641年に亡くなりました。
確かに、晩年は惨めでしたが、意外と人間らしい生活ができたのかもしれません。
享年は66歳。
これは、歴代王27人の中で四番目の長寿でした。
最後に、光海君と仁祖の違いを1つだけ取り上げます。
光海君は二股外交で後金からの侵攻を防ぎました。
一方、仁祖は後金を野蛮な国だと軽蔑しました。
こうした態度が後金を怒らせ、朝鮮王朝は何度も侵攻を受けました。
1636年12月には清と国号を変えた後金が大軍で攻めてきて、仁祖は土下座をして謝罪しました。
以後、朝鮮王朝は清に干渉され続けます。
まさに、仁祖は外交で大失敗をおかしたのです。
政治的には、光海君のほうがはるかに有能だったといえるでしょう。

(終わり)

文=康 熙奉(カン ヒボン)

-愛してる韓国ドラマK-POP-



『華政』光海君(クァンヘグン)の実像1・2





ブログ村に参加しています。
拍手にポチッ!ブログ村にポチッ!としてくださるととても嬉しいです

にほんブログ村 芸能ブログ 韓国男性芸能人・タレントへ
にほんブログ村 web拍手 by FC2
line
line

line

うさまま

Author:うさまま



新旧織り交ぜたヨンジュンssi

のフォトやニュースを楽しみながら、毎日を頑張りましょう!

遠くても心はいつも

ヨンジュンssiと一緒に…

line
line
 今月のカレンダー☆12月
line
 にほんブログ村
にほんブログ村 芸能ブログ 韓国男性芸能人・タレントへ
line
日本公式
bofi.jpg
line
韓国公式
mo.jpg
line
公式モバイル・スマホサイト
mo.jpg
line
おすすめリンク 
line
最新記事
line
イトーヨーカドー
line
 ロフト
line
 楽天市場
line
 Amazon
line
月別
line
カテゴリ
line
検索フォーム
line
お気軽に 
line
お便りフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

line
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

line
QR
line
sub_line