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簡潔に読む!韓国の歴史 12・13

2017’02.17・Fri

第12・13回/最悪の暴君・燕山君

朝鮮王朝の第9代王であった成宗(ソンジョン/在位1469~1494年)は、名君と讃えられた。
庶民は成宗へ畏敬の念を抱き、平和な暮らしがいつまでも続くよう願った。
しかし、願いは、はかなくも砕け散る。
1494年、成宗が亡くなり燕山君(ヨンサングン)の治世が始まったからだ。

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わがままな性格

燕山君は、1392年から1910年まで518年続いた朝鮮王朝で、最悪の暴君だったと言われている。

成宗の長男として1476年に生まれた。
7歳で世子(セジャ/王の後継者)に指名され、18歳で即位した。

燕山君は幼くして母を失ったために、寂しい少年期を過ごした。
そうした生活の中で、彼はわがままな性格になった。
燕山君を取り巻く周囲の人たちが、彼の性格を憂慮していたという話は数多く残されていて、代表的なのは次の2つだ。

ある日、成宗は帝王学を授けようと燕山君を呼び出した。
すると、燕山君の前に1頭の鹿が現れ、彼の手の甲や服をなめた。

その鹿は成宗が最も目をかけていた鹿だったのだが、手の甲や服を汚されたことに腹を立てた燕山君は、怒りのあまり成宗の目の前で、その鹿を殴りつけた。
その光景を見た成宗は非常に怒り、燕山君をきつく叱った。

しかし、執念深い燕山君は即位するとすぐにその鹿を殺してしまった。

学問を軽視した王

もう1つは、幼少期の教育係について、である。

燕山君は、たとえ学問に精通していて人望がある教師であっても、自分に厳しくした人に恨みを抱き、即位後には処刑するという非道なことを行なっている。

こうした2つの逸話を通しても、燕山君の執念深さと残虐性が垣間見れる。

ただし、即位した当初の燕山君は、庶民の生活に配慮する政治を行ない、名君だった成宗の死を悲しむ人たちを一応は安心させた。

たとえば、燕山君は役人たちの不正を取り締まるために、国家の秘密調査官である暗行御史(アメンオサ)を全国に派遣した。

また、宮中の人材を充実させるために、特別な試験を行なって有能な臣下を迎え入れたりもした。

さらに、北方の女真族(旧満州地域に住んでいた狩猟民族)の動きが活発になると、その平定に尽力した。

こうした善政がある一方で、燕山君は他の歴代の王と同じく、朝廷内で権力を握ろうと企てる官僚たちとの対立に翻弄された。

彼は気性が荒く、軍事面には興味を持ったが、学問を軽視した。
そのため、成宗時代に台頭した士林派(勉強熱心な儒学者たち)と幾度となく衝突した。

堕落した生活

燕山君は、ことあるごとに学問を奨励する士林派たちを苦々しく思い、徐々に憎しみを募らせていく。

そんな燕山君に目を付けたのが、士林派と対立する柳子光(ユ・ジャグァン)だった。
彼は、かねてから目ざわりだった士林派を一掃する好機とばかりに、燕山君に士林派の悪口を吹聴し続けた。

1498年、柳子光にそそのかされた燕山君は、大勢の士林派の処罰を断行した。
これが燕山君が起こした最初の暴政「戊午士禍」である。
この事件を境に朝鮮王朝の政治は堕落していく。

弾圧によって燕山君の行ないをとがめる者がいなくなると、彼は次第に政治に関心がなくなっていった。

張縁水(チャン・ノクス)という悪女が側室になると、燕山君の堕落した生活はさらにひどくなった。

彼は毎日のように宴会を開き遊び続けた。
なんと、国家の正式な教育機関である成均館(ソンギュングァン)を酒池肉林の場に変えてしまった。

朝鮮王朝の10代王・燕山君(ヨンサングン)が連日開く宴によって国の財政は悪化し、その反動で庶民の生活は苦しくなった。
当然ながら燕山君に非難が集中した。
ハングルによる政治批判の書が各地に掲げられると、燕山君はハングルの使用を禁止し、強引に民の批判を押さえつけようとした。
そんな折りに、重大な事件が起こる。

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継妃の恐るべき行状

任士洪(イム・サホン)という奸臣が何も知らない燕山君(ヨンサングン)に、彼の母の死の秘密を告げてしまった。
これによって、朝鮮王朝の歴史を揺るがす大虐殺が始まったのである。

ときは成宗(ソンジョン/在位1469~1494年)の時代にさかのぼる。
継妃として成宗の寵愛を受けていた尹氏(ユンシ)はたぐいまれな美貌を持つ女性だった。
しかし、独占欲が強くてわがままで、王や周囲の人間を困らせることが多かった。

最初は尹氏を愛していた成宗だったが、臣下の者たちにいさめられたことも多く、成宗は次第に彼女を遠ざけるようになった。

そんなある日、たまたま尹氏のもとに行った成宗は、彼女が成宗の側室たちを呪い殺そうとしていた事実を知る。
怒った成宗は、尹氏を謹慎させた。

ただ、成宗にしても「処罰が厳しすぎたかな」と後悔する面もあり、久しぶりに尹氏をなぐさめようと彼女の部屋を訪ねたのだが、ちょっとしたいさかいがあって成宗は引っかき傷を顔に作る羽目になってしまった。

母の復讐

王たる成宗の顔に傷を付けた罪は重く、尹氏は宮中から追放された。
それでも、尹氏に対する非難はやまず、結果的に1482年に死罪となってしまった(『宮廷女官 チャングムの誓い』の第1回で死罪になった元王妃がまさに尹氏である)。

実は、燕山君はこの尹氏の息子なのである。
こうして母の死の真相をずっと後になって知った彼は、怒りに身を震わせた。
そして、尹氏の母を宮中に招いて真相を改めて確認し、母の復讐を誓った。

燕山君は常軌を逸していた。

1504年、尹氏の死罪に関わった人たちを例外なく捕まえて極刑にし、すでに死んでいる人たちの場合は墓を掘り返してその首をはねた。

これが、世に言う「甲子士禍」だった。
この事件によって殺害された官僚や学者は100人を超えると言われている。

逆らう者たちを残虐に処刑する燕山君。
臣下の者や庶民は恐怖で沈黙するしかなかった。
また、彼の暴政は悪化の一途を辿る。
全国に特使を送って美女を探し、彼女たちを宮中に集めて宴席をともにさせた。

クーデターで王宮を追われた

燕山君への不満は、クーデターという形になって現れた。

先頭に立った朴元宗(パク・ウォンジョン)は、実の姉が燕山君に犯されて自殺していた。
それだけに、彼の恨みは凄まじく、「打倒・燕山君」の急先鋒となった。

朴元宗の呼びかけに多くの有能な者たちが揃い、1506年、燕山君の異母弟である晋城大君(チンサンデグン)を次代の王に擁立してクーデターが決行された。

悪政の影響で宮中の護衛兵も弱体化していた。
そればかりか、多くの臣下たちが反旗を翻してクーデターに参加した。
こうして燕山君は王位を追われ、晋城大君が11代王・中宗(チュンジョン)として即位した。

廃位後の燕山君は、都から比較的近くにある江華島(カンファド)に流された。
そして、孤独のまま流罪から2カ月後の1506年11月に30歳で死去した。

彼の墓は現在もソウルにあるが、「燕山君之墓」という墓碑銘の他に一切の装飾もない。
残虐非道な暴君の末路。
墓があるだけでもまだ恵まれているのかもしれない。

文=康 熙奉(カン ヒボン)

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