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日韓が知るべき歴史 3

2017’07.04・Tue

康熙奉(カン・ヒボン)の「日韓が知るべき歴史3/朝鮮出兵直後編」

豊臣軍による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が終わったのは1598年11月だった。
戦乱は終結しても、国土が荒廃した朝鮮王朝の恨みは甚だしかった。
日本と朝鮮半島の間で外交を仕切っていた対馬は、朝鮮王朝に対して関係修復を働きかけたが、何度も門前払いにされた。

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朝鮮王朝にとって好ましい人物

日朝関係の状況が変わったのが1600年9月だった。
日本では豊臣の家臣団が東西に分裂して天下分け目の決戦にもつれこんだ。
関ケ原の合戦である。
この戦いに勝利したのが東軍の徳川家康で、彼が豊臣家から政権を奪うことが確実となった。

朝鮮半島でも変化があった。
戦乱が終わってもしばらく駐留していた明国の軍勢が中国に引き揚げた。
再度日本からの襲来があった場合、朝鮮王朝は単独で対処しなければならなくなった。
しかし、そんな心配はいらなかった。
朝鮮王朝にとって家康は、仇敵の豊臣家を没落させてくれた人物であった。
しかも、家康は朝鮮出兵のときに配下の兵を1人も朝鮮半島に送っていなかった。
朝鮮王朝が和平の話し合いを始めるにあたり、家康ほど好ましい相手は他にいなかったと言える。

徳川幕府の「正統性」

徳川家康は、征夷大将軍になって1603年に江戸幕府を開いた。
念願をかなえた家康にとって、最後の望みは徳川家が将軍職を代々引き継ぐことだった。
障害がまだ多かった。
気掛かりなのは、豊臣秀吉の遺児の秀頼が大坂城にいることであった。
豊臣恩顧の大名たちが秀頼をかついで幕府に反旗をひるがえすことも十分に予想された。
なにしろ、徳川幕府には政権の正統性に疑問符が付いていたからだ。
「豊臣家の内紛にかこつけて政権を横取りした」
それが当時の日本人の率直な心情であったことだろう。

「幕府を磐石にするためにも正統性がほしい」
そう願った家康が着手したのが朝鮮王朝との関係修復だった。
彼にしてみれば、国内をまだ完全に統治できない間に、隣国とこれ以上のもめごとを起こしたくなかった。
さらに前向きに考えれば、朝鮮王朝と和平を結べば、徳川幕府が外国から正式な政権として認められることを意味していた。
これこそがまさに「正統性」だった。

12回来日した朝鮮通信使

家康の意向をくんだ対馬藩は、それまで以上に熱心に朝鮮王朝に働きかけた。
「家康が相手であれば関係修復を考えてもいい」
徐々に朝鮮王朝が軟化し始めた。
朝鮮王朝としても、日本と交渉をせざるをえない事情があった。
戦乱の最中に日本に連行された人々は5万人にのぼると推定されたが、その人たちの家族から「早く連れ戻してほしい」という嘆願書が無数に届いていた。
政権としても、日本と早めに和平を結ぶ必要があったのだ。

あれほど憎悪に満ちた関係に陥った両国だが、徳川幕府と朝鮮王朝の思惑が一致して、朝鮮通信使が1607年に江戸にやってきた。
両国は国書を交換して、正式な外交関係を築いた。
以後、朝鮮王朝と徳川幕府の間で信頼に基づく善隣関係が幕末まで続いた。
その間に来日した朝鮮通信使は12回だった。
江戸時代の日本は鎖国体制を強化して国を閉ざしたが、朝鮮王朝とは唯一の国交を結んでいたのである。

-愛してる韓国ドラマK-POP-



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