燕山君廃位のとき中宗と端敬王后は
2018’10.31・Wed
燕山君(ヨンサングン)廃位のとき中宗(チュンジョン)と端敬(タンギョン)王后は
1506年、暴君だった10代王・燕山君(ヨンサングン)は、高官たちによってクーデターを起こされた。
そのとき、燕山君の異母弟とその妻は、どのような立場になったのだろうか?

側近に見捨てられた燕山君
クーデター派はまず、燕山君の異母弟にあたる晋城大君(チンソンデグン)の屋敷を訪ねた。
燕山君を追放したあと、新しく晋城大君に王になってもらうためだ。
しかし、計画を何も知らなかった晋城大君は、武人たちが自邸に押しかけてきたことに仰天してしまった。
「殺されるに違いない。もはや、これまでか……」
晋城大君は震えた。
彼は今までに燕山君から脅迫まがいの嫌がらせを数多く受けてきた。
それだけに人一倍の恐怖心があり、自邸に押し寄せた武人を見て、異母兄が送り込んできた刺客たちと錯覚したのだ。
晋城大君は自決しようとした。
それを必死で止めたのが夫人の慎(シン)氏だった。
彼女は武人たちの様子をうかがい、決して刺客ではないと悟った。
こうして招き入れられたクーデター派は、晋城大君に挙兵を説明した。
ところが、晋城大君の態度が煮え切らない。
それどころか、きっぱりと拒絶した。
必死に説得するクーデター派。
晋城大君はなかなか首を縦に振らなかった。
一方、クーデター派の主力部隊は王宮に侵入して、燕山君の寝室に向かった。
そのとき、護衛の兵はどうしたか。
彼らは塀を乗り越えて我先にと逃げ出したのだ。
宮中はもぬけの殻(から)になるような状況で、からだを張って王を守ろうとする者はいなかった。
これほどに燕山君は愛想をつかされていたのだ。
その燕山君は、クーデター派の侵入を知って驚き、伝えにきた者の手を握ってブルブル震えているばかりだった。
それを心の中で軽蔑しながら見ていた側近たちも、「外の様子を見てまいります」と言うと、脱兎のごとく逃げ出した。
こうしてクーデターは成功した。
息子の即位に反対した母
高官たちは、大妃(テビ/王の母)のもとに向かった。
このときの大妃は貞顕(チョンヒョン)王后で、彼女は燕山君の継母であった。
彼女は1488年に成宗(ソンジョン/燕山君の父)の息子を産んでいる。
それが晋城大君だ。
燕山君から見れば12歳下の異母弟ということになる。
その晋城大君が王に推挙されたと聞いて、貞顕王后は難色を示した。
我が子がクーデターによって面倒なことに巻き込まれるのを心配したのだ。
「あんな小さな子がどうやって重責を全うできるのか。もう少し成長してから、代を継ぐことを考えたほうがよいのではないか」
このとき、晋城大君は18歳だった。
その若さを貞顕王后が憂慮したのである。
しかし、クーデター派は重ねて説得し、とうとう貞顕王后が折れた。
「国の趨勢(すうせい)がこうなってしまったからには、また新しく始めることがよかろう。その通りにするがいい」
貞顕王后の許可を得て、高官たちは晋城大君を説得した。
しかし、彼は相変わらず拒絶した。
「朝廷のためにも、このような行動を起こすことは当然だが、私は実に不徳が多い人間だ。私に務まるとは、どうしても思えない」
高官たちは辛抱強く説得を続けた。
即位式の冠服が間に合わなかった
晋城大君もようやく拒絶が不可能ということを悟り、最後になって申し出を受け入れた。
これによって、クーデターは完全な成功で終わった。
晋城大君は気が進まなかったが、すでに自分の意思ではどうすることもできず、周囲にお膳立てをしてもらったうえで王宮に入った。
そして、11代王・中宗(チュンジョン)としての即位式に臨んだ。
このとき、正式な冠服を着られなかった。
あまりに急で準備が間に合わなかったのだ。
それほど中宗の即位は異例だった。
王となった中宗は第一声を発した。
「近年、王が道理を失い、民心が窮していたのに余は救済できなかった。しかし、幸福にも文武の臣たちが朝廷と民に対する重責を担い、大妃の指示を仰ぎ、余が即位することになった」
中宗の最初の王命は大々的な恩赦令だった。
凶悪犯を除いた罪人たちの多くが恩赦を受けて釈放された。
重臣から庶民に至るまで、誰もが「万歳!」と叫んで中宗の即位を歓迎した。
燕山君の暴政が終わった解放感はこのように大きかった。
そして、中宗の妻の慎氏は端敬(タンギョン)王后になったのだが……。
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